Te amo

10


 マモちゃんにも手伝ってもらいながら調べた彼の家は、閑静な住宅街の中にあった。緊張しながらも隣にマモちゃんが居ることで何とか勇気を出し、インターフォンを鳴らす。名前を告げた私の声はちゃんと届いただろうか。震えていなかっただろうか。
「高尾……さん?」
 出てきた彼のお母さんは見るからにやつれて、肌の色も白く、疲れた顔をしていた。今日が初対面だけれど、本当はもっと美人なんだろうと思えた。
「はい。あの……先輩のこと、聞いて、その……」
 なかなか後が続かない私に、先輩のお母さんはにっこりと笑って家に上げてくれた。その笑みはまだ弱々しくて、それだけで胸が詰まりそうになる。
「部屋にも入る?」
 リビングに通してくれた彼女はそんなふうにも言ってくれて、私は思わず「良いんですか?」と聞き返した。先輩の部屋。その単語だけで違う緊張が走る。呼んでくれたことのない彼の部屋を、私が見ていいのかも分からなかった。だけど躊躇う私の背中を押したのは隣に居たマモちゃんではなくて。
「むしろ見てやってください。あの子、今まで女の子を連れて来たことなんてなかったから、貴女だけでも紀也のことを覚えていてほしいの」
 彼は私だけでなく、他の彼女もここへは入れなかったのだ。それを聞いただけで、どこか喜んでいる自分が居る。今はもう彼は居ないのに。
「他にも誰かここへ来ましたか?」
 今まで黙っていたマモちゃんが突然そんなことを聞いた。私の胸は騒ぎ出して、彼のお母さんはきょとんとマモちゃんを見た。
「いいえ、女の子は高尾さんだけだけど……」
「なら良いんです。すみません、変なこと聞いて」
 そう言ってマモちゃんの得意な柔らかい笑みを浮かべる。彼女も同じように微笑見返した。
「大丈夫よ。紀也は優しい子だから。じゃあゆっくりしていってね」
 そして彼の部屋で、私とマモちゃんだけが残された。
 彼の部屋は2階の突き当りに位置していて、大きな窓が東側に一つある。青いカーテンは閉まりきっていた。隙間なく埋まっている本棚には色々な種類の本が並べられていて、彼の意外な一面を見た気がした。私も知っているタイトルの小説や漫画もあるし、難しそうな新書や専門書も数多くあって、それらが無造作に並んでいるのだ。
 机はキレイに片付けられていて、やはりそこに並んでいたのは英和辞書や漢字字典や、教科書だ。あれでも彼は一度大学に行っていたのだ。それも私なんかが手を伸ばせないくらい難しいと言われている難関大学だ。そういえばまだちゃんと、辞めた理由を聞いていなかったなと思い出す。もうどうでもいいことだけれど。
 ベッドは白いシーツに紺の布団、青い枕。カーテンより薄い色の青色だ。壁には何もなかった。カレンダーも、時計さえもなかった。ドアと本棚が挟むようにクローゼットがあった。クローゼットの扉は半分開かれていて、そこからハンガーに引っ掛けられている制服や私服が見える。何度か見た服もそこに当たり前のように掛けられていた。
 どこを見回しても彼らしいと思った。キレイに片付けていたのはきっと彼だろう。お金にも人間関係も適当だった彼だけど、細かいところはしっかりとしていて。私と居る時は決して他の人の話はしなかったし、私だけを見ていてくれている気にさせるのが上手かった。私はだから、彼から離れるなんてできなかったのかもしれない。
 彼のそういうところが、人を惹きつけたんだと思う。彼が離してくれなかったんじゃない。私が離れなかっただけ。ただそれだけのことだった。私は気づいているフリをして、分かってるんだからと自分に言い聞かせていて、それでも心のどこかではまだ足掻いていたんだ。そうじゃないと、信じたかったんだ。
 ゆっくりと彼がそこで勉強していたんだろう机に、そっと手を置く。埃一つない机の上は冷たくて、けれど鉛筆立てに立てられているシャーペンだとか、使いかけの消しゴムが、確かにここに居た主の存在を残しているようだ。
 本当にこの部屋に彼はいて、この家で生活していたのだろう。私と知り合う前も、知り合ってからも、ここで彼は色々なことを思って過ごしてきたんだろう。
「……マモちゃん」
 声を出したら泣くかと思った。
 だけど涙は出なかった。
「先輩、もう、居ないんだよね」
 もうこの世には居ないんだよね。私がそう言うと、マモちゃんは静かに頷いた。マモちゃんに背を向けてる私にはマモちゃんの表情は分からなかったけど、その声はとても温かく、いつものように優しく聞こえた。
 もう会えないのだ、彼には。声を聞くこともできないのだ。
 あれが、あの時の電話が、最後だったのだ。本当のお別れだったのに。
「先輩が……居ないんだよね……ここにも、帰ってこない、んだよね」
 どうして。どうして。どうして。
 もう彼は居ないのに。会えないのに。話せないのに。
 こんなにも会いたくて堪らない。
「私、ちゃんと、お別れが言いたかったよ……。先輩にもっとちゃんと好きだったって、ずっとずっと好きでいるって、言いたかった……っ」
 震える私の声。喉の奥が熱くて痛い。
 不意に、抱きしめられて。でも抵抗するほど私は強くなくて。
 ただ分かるのは、後ろから抱きしめられる腕は彼の温もりじゃない。
「手を繋ぐだけでいいから、ずっと触れていたかった……先輩が傍に居てくれるならなんだって良かったのに!」
「……高尾……っ」
 ぎゅっと、私を抱きしめるマモちゃんの腕に力が込められた。それは痛いほど私の体を締め付けて、だけどそれ以上に胸が痛かった。もっと強く抱きしめてくれなければ、きっと私は崩れてしまっていた。
 今までだって充分に泣いた。
 どれも、こんなに激しい涙じゃなかった。
「実莉」
 一瞬、先輩の声に聞こえた。
「実莉」
 それは私の耳元に囁くマモちゃんの声だった。
「俺が傍に居るから。幸せにするから」
 先輩のセリフがそのまま頭の中に響く。
『もしも俺がいなくなったら、そいつに傍に居てもらえよ。俺はお前に迷惑しか掛けてなかったけど、そいつなら実莉を幸せにしてくれるだろうからさ』
「だから俺を選んでよ」
『……実莉はまた俺を選んでくれるかな』
 先輩――!

 静かに流れる沈黙。閉め切られた空間に風が起こるはずもなく。ただ私はマモちゃんの腕の中で、先輩の声を思い出していた。