Te amo
 -side T-

6


 頭の中が真っ白になった。
 何がどうなっているのかさっぱり分からない。
 なんで俺……病院の廊下で突っ立っているわけ?

 コンビニの角から飛び出てきた車とぶつかったのは覚えている。とてつもなく痛かったことを覚えているのに、そこから先は全く記憶に無かった。気がつけば俺は扉の前に立ち尽くしていて、そこが病院の廊下だってことはすぐに分かった。病院ってのは独特な雰囲気があるものだし、白衣を着た人間や看護師らしき人間も忙しなく俺の前を行き来していた。ふと壁に掛けられている時計を見ると、まだ5時にはなっていない。
 そんなことよりも、どうして今俺がこんなとこに居るのかが分からない。この目の前にある扉の向こうがどうなっているのか気になる。なぜだかは知らないが、ものすごく不安なのだ。
 一歩、扉に足を近づける。
 手を伸ばして扉を開けようとして。
 俺の意識は再び閉じた。

 再び目を開けると、俺はやっぱり病院の廊下にいて、目の前には「面会謝絶」のプレートが掛けられている部屋があった。そこは個室のようで、俺の名前が片隅にある。辺りを見回して待合室のような広くなった場所の壁に時計を見つけた。5時をだいぶ過ぎていた。
 部屋に入ろうとドアに手を掛けるが、ピクリとも動かない。というか、触れない。漫画みたいに通り抜けることも出来ず、それはドアというよりも壁のようだった。どうして俺はこの中に入れないんだろう。俺の体はこの向こう側に在るはずなのに……。
「っなんだよ、これ!」
 声に出して言ってみても、何も起きない。起きるはずなどなかった。俺の姿さえ誰にも気づかれていないし、ドアを開けようと手を伸ばしたときに気づいたのだが、俺の体は半分が透けていた。
 自分が生きているのか死んでいるのかも分からないなんて、サイテーじゃないか。今の身体で胸に手を当ててみても、心臓が動いていることを確認できない。それなのにこうして身体を動かすという事がとても奇異で、幽霊ってのはこんなものなのかと怖くなった。映画なんかではよく見ていたけど、はっきり言って信じちゃいなかった。どうせ生きてる人間が作り出した幻想だと、思っていた。
 古代日本人は神話の中で死んだ人間が行く場所を黄泉の国としていた。それは中国からの思想だけれど、どの国でも生きてる人間の世界と死人の世界とは別に考えられていたんだ。でもそれはやはり、生きてる人間が作り出した想像世界にしか過ぎなかったのだと思う。
――バカバカしい。
 どうせならいっそ、一気に死んでしまいたかった。自分が気づかないうちに形を持たない、そんな存在になって消えてしまいたかった。どうして俺は……今こんなことになっているんだ。
 考えれば考えるだけ無駄な気がしてきた。
 不意に、実莉の声が聞きたくなった。ちょうど講義も終わっている頃だろう。律儀な実莉のことだから、講義が終わると同時に俺のケータイにメールでも送ってくれているだろう。返事がないことに不思議に思っているのだろうか。それとも俺の気まぐれと思って気にしていないのだろうか。実莉は今何をしているだろう。
 俺は体を廊下の方に向きなおして進んでみることにした。一歩前に出る。歩ける。
 階段を下りて1階に行った。広いロビーの隅に公衆電話があるのを見つけて手に取ろうとして、気づいた。……どうやって掛けるんだろう?
 そういえば普通に階段を駆け下りたり、廊下を歩いたりしていたけど、俺は今ユウレイなんじゃないか。そりゃ壁抜けはできなかったけど。想像上の存在だとしか思ってなかったけど。でもやっぱり俺は今“人間”と呼べるモノじゃあ、ないんだ。
 当然小銭なんて持っちゃいねぇし。
 訳が分からないまま、とりあえず俺は公衆電話の前まで来た。それを見つめながらどうしようか思案する。
 そもそも触ることができるのだろうか。恐る恐る手を伸ばし、受話器の上に手を置いてみる。――感触は、あった。
――マジで?
 俺は驚きながら胸を高鳴らせたような感覚がした。もちろん実際に心臓の音が聞こえるわけじゃないけどさ。
 手を握って、持ち上げる。受話器が浮いた……ように見えた。実際に浮いているのかもしれないし、ただ俺がそういうふうに見えるだけで生きてる人間にしてみたら何の変化ももたらしていないのかも知れない。ただ持ち上がった受話器は確かに俺の手の中にあって、耳を当てると聞きなれた機会音が届く。カネが無くてもユウレイが持つと繋がるらしい。俺はそのまま震える手で実莉のケイタイの番号を押した。
 コール音を聞きながら周りを見渡すと、誰も俺のことなんか見ていないし、顔を向けても特に反応を示すわけも無く、ただ素通りしていく。やはりあいつらにしたら公衆電話はいつもと変わらない公衆電話のままなんだろう。それがなんだか不思議な感じがした。
『もしもし?』
 何コール目かで実莉の声が聞こえた。昼間聞いた声と何も変わらない、いつもの彼女の声だ。それだけで、泣きそうなくらい安心する。
 俺は今生きているか死んでいるか分からない状態で、自分の体に近づくことも出来なくて、誰も俺のことに気づかなくて。そんな不安が実莉の声を聞いただけで安心に変わった。ああ、こいつだけは俺の存在を認めてくれる人間だ……。
 だから言えた。ごめん、の一言を、伝えられたんだと思う。