Te amo
 -side T-

8


 実莉に会いたい。こんなふうに心から強く願ったことなんて、今までなかったかもしれない。
 俺は試しにロビーを突き進んで病院から出ようとした。
 だけど案の定、病院の自動ドアも壁となって何の動きも見せなかった。まぁ実体のない俺にセンサーなんか反応するわけも無いんだけど。でも壁抜けも出来ないのは、やはりここから出るなということなんだろう。それ以外の壁だったら簡単に通れるんだから。
 そのことは既に確認済みだった。玄関口に向かう前にふと思いついて、ドアの閉まったトイレの前に立った。そしてドアの取っ手を引くわけでもなく数歩進んだのだ。すると一瞬で個室の中に入ることができた。そこで俺は正しくユウレイであり、壁抜けが出来ないわけじゃないということを確かめた。
 けど俺の病室に入ることも出来なければ、この病院から出ることも出来ない。なんて不自由なユウレイなんだろう。それともユウレイってのは生きてる人間以上に閉じ込められた世界に居るものなんだろうか。
 こうなりゃ、もうどうでも良くなってくる。俺が生きていようが死んでいようが、事実は今俺はこうしてユウレイみたくふよふよしているだけなんだってことだ。それはとてつもなく窮屈で、退屈で。だけど俺はそれでも、まだ消えたくないなんて思っている。

 俺は再び自分の病室の前まで来た。もちろんその中に入ることは出来なかった。だからその前に座り込む。どうせ誰の邪魔にもならない。俺の体を忙しく動く医者や看護師が通り抜けていき、パジャマ姿の入院患者が引きずる点滴に引かれていく。痛みも痒みも何も感じなかった。俺は俺という意識があるだけの空気になってしまったんだと強く自覚させられた。
「……面会……謝絶?」
 後ろからそんな声が聞こえ、振り返ると驚いた表情のカオリと佐島が並んでいた。俺は思わず立ち上がる。だけど二人の視線は俺を捕らえることなく、後ろのドアに向けられたままだ。
「あ、あ、私のせいだ……っ」
 たかが四文字の漢字の羅列が書かれたプレートを見て、カオリは泣き崩れそうになった。それを隣に立っていた佐島が抱きとめ、なんとか立っているという状態。ぼろぼろと泣くカオリを佐島は黙って胸で受け止め、しきりに肩や背中を摩っていた。そこに何の表情もなく、ただ暗い瞳がカオリを見つめていた。
 そんなカオをするんだ、と俺は驚いた。佐島のこんなカオも、カオリの泣く姿も、今まで見たことが無かった。俺なんかのために泣くカオリに、なんだかとても申し訳なく思えてくる。俺はカオリの泣く姿を見たくは無かった。
「違う。飯塚のせいじゃないよ」
 おいおい、飯塚って。お前らコイビトじゃねぇのかよ?
「でも佐島クン……」
 さ、さじまクン? カオリ、お前そんなキャラなのか?
 俺は目の前で繰り広げられるシリアスな場面で、思わず噴出しそうになった。いや実際吹き出したところでこの空気を換えることはできないけどさ。
「遠野なんかのために泣かれると、すごいムカツクんだけど」
「なに、こんな時にっ」
 怒ったカオリが顔を上げると、そこにあった佐島の表情は苦しそうな微笑で。
「お前こそらしくねぇよ、佐島」
 俺は知らず、声に出して突っ込んでいた。もちろん俺の声が二人に届くはずも無い。
――なんだ。
 なんだ、結局、佐島も悲しんでくれてるんじゃねぇか。それとも単にカオリの態度に苦笑しているだけか。よく分からないけど、俺は良い方に取ることにした。佐島は俺を嫌ってたみたいだけど、俺は佐島のこと嫌いじゃなかったし。
「後藤には俺から言っとくよ」
「うん」
 ああ、そうだ。後藤だ。奴もまた大学に進んで、やっぱり俺と違って真面目に大学生をやっているんだった。最近会ってなかったから何をしているのかは知らないけれど。彼女とか出来ているんだろうか、あいつは。
「おばさんたちに挨拶、してくる」
 俺の聞いた事がないか細い声でカオリが言った。佐島はそれに頷き、二人でまたゆっくりと俺の前から離れていく。
 おばさんって……ああ、母さんか。
 そういや母さん、俺が居なくなったらどうするんだろう。
 俺の家はいわゆる母子家庭というヤツで、父親は居ない。俺が小さい頃に離婚したらしいが、記憶に残っていない。代わりに父親だと思っていた人は俺の叔父さんだった。その叔父さんも数年前に結婚して、今は一軒家に二人暮らしの、けっこう裕福な生活を送っていたのだ。
 俺、母さんにも、謝んなきゃならないこと、たくさんあるんだった……。