Te amo
 -side T-

10


 こうなる前の俺は恵まれていたんだろう。特に必死にならなくてもそこそこいい点数は取れたし、陸上も球技も水泳もなんとなく出来ていたし、父親は居なかったけど叔父さんのおかげで金銭面でも困ることは無かった。母さんには心配かけたかもしれないけど、俺自身は親の愛情を受けることも出来ていたし、女関係でもめたこともあまりない。
 何より実莉に出会えたんだ。
――だからか?
 カミサマなんざ信じちゃいなかったけど、どうして人間が宗教なんかに縛られるのかが分かった気がする。神様ってのは思いようによっては果てしなく都合の良い存在だよな。
 俺の全てをなくして、それでもどうして俺は今“ここ”にいるんだ。

「飯塚の話だと」
 1階のロビーでハタセと佐島が向かい合って座っている。俺はハタセに背中を見せるように、佐島の隣に座った。
「コンビニの角から飛び出してきた車に撥ねられたらしい。すぐに救急車を呼んだみたいで命だけは助かったけど、今もあんな状態で……。でも一時は心臓も止まったらしいから、呼吸してるのも奇蹟なんだってさ」
 初めて聞く自分の経過。医学的なことは分からないけど、俺は相当やばかったらしいってのは分かった。実感なんか湧くはずがないけど。
「その飯塚さんってのは?」
 ハタセの低い声に佐島は何も反応しなかった。
「俺の恋人だよ」
 何て事のないふうに答えた佐島。それをハタセがどう捕らえたかなんて分からないけど、しばらく沈黙が続いた。
「……何も思わないんですか」
「何が?」
「だって明らかにそれ、浮気じゃないですか?」
 ふ、と俺は吹き出した。昼真っから男と女が会ってたらデート? 単純すぎだろ、それは。いやマジメすぎなのか。どっちにしても俺には分からない思考だ。
「違うと言い切れるよ。二人は昔から仲が良かったし」
「嫉妬とかしないんですか?」
「それとこれとは違う次元の話だと思うけど」
 青いなーハタセくんは。俺は聞こえるはずも無いのに声を殺して笑った。でも何となく言いたいことは分かる。きっとこいつは実莉に惚れてる。俺以上に惚れてるのかもしれない。
「確かに前は飯塚と遠野は恋人だったけど、今はもう友達だって分かる。だから二人の仲を疑ったりしないし。まあ、遠野のことだから違う彼女とどうなってたかも知れないけど」
 それから一息置いて、佐島はまた話し出した。
「正直、俺は遠野が苦手だった。会った時から。平気で女をとっかえひっかえ変えて、浮気も普通にするし、かなり自己中だし。俺と飯塚って中学の時同じクラスでさ、その時からずっと好きだったんだ。明るくて、意外にサバサバした性格で、男女問わず結構人気あってさ。でもあっさり遠野の彼女になって。余計遠野が嫌いになったんだけど。でもあいつ、女フルの上手くて、別れても普通に友達に戻れるんだ。そういうのを何度も見てきたから、飯塚とも今は友達以上の関係はないと言い切れる。実際は知らないけど、今俺はそう信じられるんだ」
 ……ああ、きっと今ここに俺が居たら殴られそうだな。俺とカオリは佐島が思うようなさっぱりとした関係じゃない。どこまでも曖昧な関係だったんだよ、今までも。カオリの弱いところも未だ覚えているし、イク時に腕を掴む癖も覚えている。どこまでも最低なんだな、俺って。
「俺は信じられません。遊びなら高尾じゃなくても良いのに、どうして別れないんだって、振らないんだって、ずっとそう思ってましたし、今も変わりません。だからその飯塚さんのことも隠さず言います」
「浮気していて事故に遭ったって? それは真実じゃないよ」
 ハタセは答えなかった。代わりに立ち上がる気配がした。
「今日はただ事実が知りたかっただけです。二人の間に何があったかなんて関係ありません。ただ飯塚さんと居たという事実だけを言います。でも高尾が二人の関係を聞いてきたら俺は俺の見解を言うだけです。俺は、真実はどうだっていいんです」
 俺は体の向きを変えてハタセの顔を見上げた。もちろんハタセの視線は隣にいる佐島に向けられている。
「なあ、お前」
 俺は聞こえるはずも無い声を出して、目の前に立つ実莉を想う男に向かって言った。
「そんだけ実莉のことを想ってんならずっとそばにいてやれよ。んで、さっさと俺から奪っちまえ。今なら簡単だろ?」
「……でも遠野さんの代わりになれないことは知ってます。もし遠野さんが目を覚ましたら、きっと高尾は……」
 自信持てよ、ハタセ。
――なんて、俺が言うことじゃないんだろうけど。
 でも、なんとなく俺は分かっている。
「心配すんな。俺はきっと、もう目を覚ますことは……ないからさ」
 そうだ。薄々気づいていた。
 俺はもう、目を覚まさないだろう。
 手が震え、足が震え、声も震えた。
 自分の体にさえ近づけないって事は、そういうことだろ。もう戻るなって事だろ。戻れないって事以外に何があるっていうんだよ。
「頼むよ、ハタセ……」
 きっとお前なら実莉をシアワセにできるだろう。俺にはできなかったことをたくさん叶えられるだろう。俺じゃだめだったんだ。あの頃の俺には、何も無かった。
 今じゃもう何も出来ないんだ。