モーニング・キス

act4.3


 コンビニで立ち読みをしながら待ち時間を潰すなんて、学生の頃以来だと思い出す。遼佑くんに言われたとおり30分ほどそうして過ごし、そのまま出て行くのもなんだったので肉まんを一つ買った。
 駅の改札前にあるベンチに座り、買ってきた肉まんを頬張る。あれほど食べたというのに、あたしの胃袋はすんなりとそれを受け入れた。温かい肉まんがあたしの冷えた手や口を温めてくれる。
 肉まんも食べ終え、自動販売機で暖かい食後のコーヒーを飲み終えた頃、ようやく遼佑くんの車が見えた。缶をゴミ箱へ捨てると、急いで彼の元へ駆け寄る。
「ごめん、俺から言い出したのに」
 そう言いながら遼佑くんは助手席のドアを開けた。あたしは何も言わずに乗り込み、シートベルトを装着する。
「怒ってるのか?」
 それを遼佑くんが聞いてきたから、あたしは思わず笑った。
「別にそんなこともないけど」
 遼佑くんを見上げると、あたしが笑っているから彼もふんわりと笑う。
「それなら良い。急に新田から電話あって、参ってたんだ」
 ギアを入れて車が動き出す。あたしのアパートの前を通り過ぎて遼佑くんのマンションへと向かった。
「大丈夫だったの?」
「ああ、単なる数字の間違いだったから。でもそのせいで新田は残業してたらしくて、長いこと愚痴られてた」
「ふぅん。大変だったね」
 新田さんと長電話してたから? なぜだか遼佑くんの表情が嬉しそうに見えて、あたしの気分は逆に下降していく。一度会っただけだけど、確かに新田さんという女性はカッコ良かったし、良い人だったし、遼佑くんが好きになったのも分かるけど。それならどうして今彼の隣に居るのはあたしなんだろう。やっぱりさっぱり分からない。
「遙はどうしたんだ? 飲みすぎて気分でも悪くなったか?」
「あたしは飲んでないの。飲んだのは朋子と純と」
 あれ、純の友達の名前は聞いてなかったっけ。悪いことしたかな。ううん、しょうがないよね。話す間もなく遼佑くんから電話来たし、戻っていったら既に潰れてたんだもの。その中で飲み続けてた朋子と純は、モンスター並みにヤバイのかもしれない。
「純って、遙の従姉弟の?」
「うん、そう」
「神田だけじゃなかったのか?」
 遼佑くんはなぜかとても驚いた声を出した。そんなに驚くところなんてあっただろうか。
「そうだけど……それがどうかしたの」
 だけどあたしが聞けば「別に」と言うだけで答えてくれない。その声音を聞けば納得してないらしいことは分かるのに。変なの。
「あ、そういえば話って?」
 少しおかしくなったこの場の雰囲気を変えようと違う話題を口にしてみる。
「帰ってからだ」
 遼佑くんはそれきり黙ってしまった。
 どうやらあたしの機転はものの見事に失敗したようだ。

 勝手知ったる他人の家ではないけれど、遼佑くんがドアを開けてくれたので、あたしは特に気にするでもなく靴を脱いでそのままリビングのソファに腰を降ろした。遼佑くんも何も言わず、あたしの後に続いて、けれど向かい合うには無理なスペースだったので仕方なくというような感じで、あたしの隣に座った。せめてこのソファがL字型だったら少しは距離が開けられるのにと思う。生憎ノーマルタイプの座り心地の良いソファで、彼が両手を広げたなら容易にあたしの肩を抱けるほどの広さしかない。
「何か飲むか? まぁ、ビールしかないけど」
 知ってる。この家の冷蔵庫に飲み物と言われるものは缶ビールとペットボトルのミネラルウォーターしかないことくらい、充分承知している。そして確か、野菜も色々切らし始めていたと思う。そうだ、今度来る時はレタスと卵、ニンジンを買ってこようと思っていたのだ。
「ありがと」
 渡された缶ビールは冷え切っていた。この寒い季節にもやはりビールは冷えてくれていた方が良い。
 そしてそのまま遼佑くんも隣に座るのかと思いきや、コトンとテーブルに何かを置いた。
「え……?」
 それは四角い小さな箱で、その形から中に何が入っているのかなんてことは、世の女性ならすぐに分かるものだ。遼佑くんはそれを開けるでもなく、ただあたしの前へ寄せて、自分はソファへと腰を下ろす。
 え。普通は開けて渡すとか、そういうものじゃないの? だって箱を貰うんじゃなくて、その中が大切なものでしょ。
「あの、遼佑くん? コレはいったい……」
 両手で缶ビールを抱えたままあたしは隣の彼を見た。遼佑くんは真剣な表情であたしを見ていた。
「遙……、――結婚しよう」
 一瞬で。
 ストンと手の中の缶ビールが落ちた。まだ開けなかったからこぼれることはないけれど、その重さがあたしの膝の上に落ちる。
 力が抜けて。
 言葉も出なくて、考えることすら忘れてしまったかのようで。
 世界が変わった。
 あたしは動けなくて、ただ遼佑くんを見つめることしかできなかった。
「何、言って……だって、そんなこと」
「急だってことは分かってる。でもずっと考えてたんだ」
「ずっと、って?」
「初めてこの家に遙が泊まった日から、ずっとだ」
 いや、だって、それは同窓会からの流れで。違う、そうじゃなくて、それじゃあ、泊まるように言った時は――。
 ああだめだ。考えがまとまらない。どこから考えればいいの。何を答えればいいの。
 遼佑くんは何を考えているの?
「遙」
 彷徨う視線の中、名前を呼ばれてあたしはもう一度遼佑くんの方へ目を向けた。彼の視線はあたしを捕らえて離さない。
 そっと遼佑くんはあたしの頬に手を触れた。伝わってくる体温と、それから触れている指が震えていることに気づかされた。
「“うん”って言えよ」
 鼓動が速くなる。でもきっとそれは遼佑くんも同じなんだと分かる。ひどく強張ったその表情は、ほんのりと赤く染まっていた。
 だけどその一言はとても重いから。
「……言えないよ」
 やけにはっきりとした口調で、あたしの声は泣きそうだった。
「そんなの、言えない」
「どうしてだよ?」
「だって……」
 理由なんて、挙げればいくらだってある。あたしたちは本当の言葉を何一つ交わしてなくて、お互いのことを何一つ分かり合っていない。それなのにどうして“うん”なんて言えるだろう。
「俺は、遙が好きだ。一緒に居たいって思うし、一緒に生きていきたいって思う。遙は違うのか?」
「そんなの分かんないよ」
 触れていた指が、手が離れて、遼佑くんの表情がいっそう固まっていく。
「分かんないって……自分の気持ちだろ」
「分かんないものは分からないの! 遼佑くんのそういう言葉も信じられないし、指輪の意味だって!」
「なんで俺の言葉が信じられないんだよ!」
 思わずあたしは立ち上がって遼佑くんを見下ろした。
「何もかも急すぎるからでしょっ。付き合うのにしたってそうだし、連絡だってそうだし。でもこれだけはちゃんと考えてほし」
「考えてないのは遙じゃないのか?」
 遮るように遼佑くんが静かに言った。聞いたことのない低い声音で、ゆっくりと言い聞かせるように口を開く。
「彼女になってほしいと言ったのは確かに俺だけど、嫌だったら抵抗すれば良かったんだ。今までだって抵抗しようと思えばいくらでも機会はあったのに、食事に誘えばちゃんと来るし、泊まれと言えばそうする。だいたい遙は流されやすいんだ」
 な、な、何を言ってるの。
 あたしの拳はわなわなと震えて止まらない。
 最初に泊まる事になったのだって同情心からで、人の親切心をそんなふうに言うなんて――。
「じゃあその流されやすいあたしの性格を分かってて、付け込んでプロポーズしたっていうの!?」
 ひどい。そこに遼佑くんの感情はないってことじゃない。
 好きだから、愛してるからじゃなくて。
 そんな悲しいことを言わないでよ。違うって否定して。
 あたしを恋人として欲しいと言ってくれたのは、ただ便利だから?
「そうだよ」
 ――そうだよ――。
 その言葉がなんども耳の奥で木霊する。
 “そうだよ”……?
「今までだってそうだったんだ。ここでもそのまま頷いてくれたら良かったのに」
 あたしが頷けば、本当に結婚する気だったの?
 どうして?
 愛はないのに?
「それじゃあ別れる?」
 遼佑くんの目を見れなくて顔を俯かせた。
 少なくともあたしは遼佑くんを好きだ。最初はわけが分からないままだったけど、彼のためなら料理の本を無意識に開いてしまうくらいには、遼佑くんのことを好きになっているのに。
 泣きそう。
 そう思った瞬間、腕を引っ張られた。
「どうして、そこで別れることになるんだ」
 思いのほか強い力で引っ張られて、気づけば遼佑くんの腕の中へ倒れこんでいた。頭の中がパニックになって身動きが取れない間に、あたしの体は遼佑くんに抱きかかえられている。
「言っておくけど、誰でもいいわけじゃないからな。遙だったから、俺は彼女になってほしいと思ったし、慣れない店にも入って指輪を買ったんだぞ」
「……うそ」
 知らず呟いていた。それは確かに遼佑くんの耳にも届いていたようだ。
「嘘じゃない。信じろ」
 ムッとした彼の声に思わず笑みが零れる。
 良かった。遼佑くんもあたしのことを、少しは愛してくれていると分かって、ほっとした。
 友達以上には思ってくれていて、嬉しかった。
 ただそれだけで、こんなにも嬉しいなんて、思わなかった。
「うん。信じる」
 だから少しは近づいてみようと思う。近づいてみたいと思う。遼佑くんのことを知りたいと、思った。
「でもプロポーズは受けないからね」
 言って、あたしは彼の背中に手を回して抱きしめ返す。
 今はまだ、この温もりに近づけるように。
「そっか」
「うん」
「じゃあ遙さん、これからは結婚を前提に、俺と付き合ってください」
 あたしたちはまだまだ、お互いのことを知らなくちゃいけなくて。
 本当の言葉を交わさなくちゃいけなくて。
 そのための一歩を、ようやく踏み出せた気がする。
「はい」
 今はただ温もりを感じ合って。