モーニング・キス

act5.1


 目が覚めたとたん軽い頭痛がした。米神を押さえて瞼を上げる。意識が上ってくるのと同時に後ろから抱きしめられているということに気づいた。振り返らずともこの腕は遼佑くんだ。ああ、今日は土曜日なのだ、と思い出した。
 ズクズクと痛む頭を持ち上げることができず、あたしはもう一度目を閉じる。彼の胸に体を預けるととても心地良いことを知っていた。
 それにしても昨日は大胆だったと我ながら思う。たったビール缶一つでああも変われるのかと発見した気分だ。何せ――ああ、思い出すと恥ずかしいのだけれど――彼と正式な恋人になれたのだ。プロポーズもされてしまった。ふはは。一度も彼氏ができなかったこのあたしに、だ。
 もちろん遼佑くんが正気でなかったことは分かっている。何を思い誤ったのか。あたしたちが中学の同窓会で再会してからまだ1ヶ月と経っていないのだから。よほど思い詰められていたんだと思う。それでもあたしが「うん」と言いさえすれば遼佑くんが救われるなら助けてあげたかった。けれど結婚はさすがに抵抗があったから恋人という形を取った。いったい彼はどうしてそこまでして結婚にこだわるのだろうか。痛む頭であたしは彼の温もりに包まれながら考えてみる。
 一番に考えられるのは新田さんの存在だ。新田智也子さん。遼佑くんの同僚で、美人。ただキレイってだけじゃなくて、カッコイイ人だった。仕事も男並みにできるんだろう。そんなことを簡単に思わせるほど堂々としていて姉御って感じの頼れる雰囲気を醸し出していた。そして……遼佑くんの元カノだ。
 どうして二人が別れることになったのかは知らない。でも、別れ方に問題があったのではないかと思う。遼佑くんはまだ未練があるという感じだったから、彼女を意識して早く体裁を付けたかったのかもしれない。相手はあたしじゃなくても良かったのかもしれない。ううん、きっと誰でも良かったのだ。少なくとも自分に好意を持ってくれて、自分の言うことを聞いてくれる相手なら、誰でも。例えば、最初の突飛な頼みごとはそれを図るための物差しだったんじゃないかしら。嫌々ながらも世話を焼いてくれれば見込みがあるとでも遼佑くんなりに考えたのかも。
 そこまで考えて、あたしはひどく自分がお人好しに思えた。良く言えばお人好し、悪く言えば単なる考えなしのバカだ。
 ふぅ、と息を静かに吐き出し、他の可能性を考えてみる。確かに遼佑くんが新田さんに未練があったとしても、そこで自棄になって体裁を付けようなんて安直過ぎやしないだろうか。もっと違う何か……、そう、遼佑くんに縁談の話が出てきて、それを断るための口実作りだとか。あたしたちもすでに20代後半。そんな話が出てきても別段おかしくない。けれど働きたい盛りの年代でもある。そこそこ経験がついて来て、成果も目に見えてくる時期だし、だけれどまだまだ教わることも多くて、いろんなことを吸収していく。今、恋愛より仕事の方が楽しいと思う人は存外多いものだ。遼佑くんもその一人で、けれど断れない相手で困ってしまう。それは世話好きな親戚のおばさんかも知れないし、部長クラスの上司かも知れない。まぁそんなことはどうでもよくて。とにかくその話に困った遼佑くんは、新田さんと別れて断る理由もなくなって、けれど別れた相手に盾になってもらうなんてプライドが許さなかったんだろう。そこで偶然会ったあたしが適役だと思われた。流されやすくてお人好しで余計な詮索はしないし。
 やっぱりあたしはバカだ。どうしてそれほど親しかったわけでもない同級生に今になって力になってあげたいと思うんだろう。よしみだったとしてもここまでする必要はないのに。最初がダメだったんだな、きっと。あそこで本当に帰れば良かった。そうすればわざわざソファで寝るなんてことをしなくて済んだんだし、ご飯だって毎日インスタントで済ませられたのに。まあ、ご飯に関しては今の方が健康的には良いのだろうけど。
 あ、そうだ、もっと短絡的に考えれば良いんじゃないか。遼佑くんは本当にあたしのことが好きで、新田さんのことはあたしの思い違いで。そうすれば何の問題もなくハッピーエンドだ。すてき。問題があるとすれば最も現実味のない考えだということだな。はぁ。
 そこまで考えたときに後ろがもぞもぞと動く気配がした。あたしを抱きしめていた腕に少し力が入り、首筋に暖かいキスが一つ降りてきた。
「おはよ」
 かすれた朝の遼佑くんの声は色っぽい。そのことに気づいたのもあたしがバカみたいにお人好しぶりを発揮した初めての朝だった。
 こういうことをされるたびに最も現実味のない考えがあたかも真実のような錯覚に陥る。それが目的なのかもしれないけど。
「……おはよう」
 くすぐったくて逃げるようにもがいてみれば、すんなりとベッドから抜け出すことができた。まだ残暑が残っているとはいえ、暦の上ではもう秋も半ばだ。フローリングの床に素足というのはもう冷たくて、ひとつ身震いする。
「今、何時?」
 遼佑くんがうつ伏せになって枕を抱えたまま聞いてきた。ベッドの横のテーブルに置いてある目覚まし時計を見ると、ちょうど長針が1、短針が8を指している。
「8時5分だけど」
「は!?」
 あたしが答えるなり勢いよく飛び起きた遼佑くんは目を丸く開いてあたしを見上げる。
「は、は、」
「はち時だってば。8時ね。5分過ぎてるけど」
「ヤバイ!」
 そう言うなりベッドから飛び降りてクローゼットを開けて着替え始める。仕事でもあったのだろうか。でも昨日はあたしに何も言ってなかったのに。あたしはパジャマからスーツに猛スピードで着替えていく遼佑くんの後姿を呆然と見つめていた。
「朝ごはん作ろうか?」
「いい、時間ない」
「コーヒーも?」
「要らない。あ、そこのネクタイ取って」
 彼は一度も振り返らずに顎でクローゼットの扉の裏にあるネクタイ掛けを指して言った。そこには何本か並んでいたけれど、一番手前のものを渡した。紺と薄いベージュのストライプ柄といった大人しいデザインのものだった。
「仕事?」
「仕事って言うか、まあ、電話番。完全に忘れてた」
 いろいろと大変なんだな。あたしは急ぐ遼佑くんとは反対にすごすごと布団の中へ逆戻りする。ぬくぬくとして気持ち良い。
「じゃあ行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
 後ろを振り返りもせずにバタバタと出て行く彼の後姿に手を振る。なんだか新婚さんみたいなノリじゃない? ははっ。変なの。
 まあいいや。もう少しだけ寝よう。今日は土曜日なんだし。仕事もないし。遊びに行く約束もしていない。
 そういえば純と朋子はあれからどうなったんだろう。二人ともちゃんと帰れたろうか。純の友達たちもちゃんと起きたのかしら。
 そんなことを布団の中でうとうとと考えていたら、突然リビングから携帯の着信音が鳴り響いた。いつの間にかマナーモードを解除していたようだ。驚いた心臓を宥めつつ急いでソファの上に放り投げたままのバッグから携帯電話を取り出す。遼佑くんからだった。
「もしもし?」
 忘れ物だろうか。
『ああ、忘れてたんだけど』
 次の瞬間、あたしの予想は裏切られた。
『今日そっちに新田が来るんだ。ベッドの隣のテーブルの一番上の引き出しにある書類渡すだけでいいから、頼めないか』
 な、なに、それ!
 あたしが何も言えずに口をパクパクと喘ぐ金魚のようになっていると電話は切れてしまった。最後に何か言われたけれど覚えていない。
 待って。新田さんが書類を取りに来るって、いったい何時? うわ、ばかばか、なんでそれを聞かないの。ていうか言ってくれかったのよ、遼佑くんは!
 こうしちゃいられないわ。まずは服を着替えなくちゃ。それから腹ごしらえをして、掃除なんかもした方が良いのかしら。お茶の準備とか……は、どうなんだろう。本当に書類を渡すだけならいいんだけど、やっぱり部屋に上げるとなるとお茶くらいはいるわよね。うわわ、何もなかったんじゃないの、ここって。だって飲み物ってミネラルウォーターか缶ビールくらいだし。わわ、買いに行かなきゃいけないじゃない!
 とりあえず着替えると、言われたとおりベッドの隣のテーブルの一番上の引き出しからA4サイズの茶封筒を取り出して、リビングのテーブルに置いておく。こうすれば忘れないだろうし。それから鍵と財布をバッグの中から取り出して、コートだけを羽織って外へ出た。秋風が冷たく吹いている。
 このマンションの便利なところはコンビニが目の前にあるということ。だけどスーパーまでは10分ほど歩かないといけない。2回目に泊まりに来たときに遼佑くんがそう教えてくれたのだ。あたしは小走りでスーパーへ駆け込み、とりあえずお茶の葉を1パックとインスタントコーヒーを一つカゴに入れた。お昼ごはんはどうしよう。あたし一人だったらアパートに帰ればいいのだけれど。……まあ、あたしが新田さんにご飯をご馳走することにはならないよね。これでいいか。あたしはそのままレジへと並んだ。
 即行でマンションに戻ると、買ってきたものを棚にしまってテーブルを拭く。お湯を沸かして、それから。
 ♪〜
 来た。心臓が高鳴り、掌に汗が滲む。受話器を取ろうとして、自分の手が震えていることに気づいた。あたしはそのまま玄関へ進むことにし、鍵を開ける。ドアの向こう側には少し驚いた様子の新田さんが立っていた。