モーニング・キス

act5.2


 ドアを開けたあたしに新田さんは完璧な笑顔を浮かべた。
「こんにちは」
 あたしはどぎまぎとしながらも、ようやく口角を上げる。顔の筋肉が引きつっているのがわかる。口の中が乾いて、よほど緊張しているのだと自覚する。朝にあんなことを考えていたからに違いない。
「どうぞ。……あの、お茶でもいれましょうか?」
 先ほど買ってきたばかりのパックを思い浮かべながら尋ねてみる。安かったから麦茶しかないけど、別に変じゃないよね。
「お構いなく。書類取りに来ただけですから」
 そう言って新田さんはにっこりと微笑む。その笑顔は完璧だった。あたしもぎこちなく微笑み返してから、やっぱり気まずくてパックを開けることにした。やかんに水を入れてガスコンロの上に乗せる。
「あ、書類は、」
 そこのテーブルの上です、と言おうとして、すでに新田さんが持ち上げていたのを見て飲み込んだ。新田さんは封筒の中を確認するとそのまま自分のバッグへと入れた。
 あたしに気づいたのか、振り返って軽く頭を下げてくれた。あたしも慌ててお辞儀をする。彼女は始終穏やかな笑みを浮かべていた。
「よく来るんですか?」
「え?」
 質問の意味をつかみ切れなくて間抜けに聞き返してしまった。来るって、来るって……あ、この部屋にってことなかな?
「こんなに朝早くから見吉くんってば、人使い荒いですよね」
 困ったように笑う新田さんは、けれどしょうがないことだと呆れてるようにも見えた。きっと遼佑くんの性格を分かっているんだろう。あたしなんかよりもずっと理解しているんだと思えた。中学の同級生だったとはいえ当時は全くと言っていいほど話したことはなかったし、そもそも付き合った時間が違うのだし、当然といえば当然かもしれなかった。
「そうですね。かなり我侭っていうか……」
 あたしも新田さんの真似をして困ったように笑ってみせる。そんな小さな対抗意識があるとも思っていないだろう彼女は「やっぱり」という表情をして同じように微笑んだ。なんだか、どこまでもかなわない相手かもしれない。あたしだったらこんな醜い感情をそんなふうに笑って流せないもの。
「とりあえずどうぞ、お掛けになってください」
 立ち話もなんだからとソファに進めると、彼女は少し考えた様子を見せてから、それじゃあと腰を下ろした。その動作を見てからソファの前のテーブルに暖かい麦茶を入れたカップを置いた。暖房を入れるには早い季節の部屋の中で、小さな湯気が立つ。
「この前の食事。あれもきっと急に連れてこられたんだろうなって思ったんですよ」
 おいしかったクリームパンを思い出した。
「確かに半強制的に……。よく会社の方たちでされるんですか、お食事は?」
「ええ。見吉くんは滅多に来ませんけどね。あの日は強引に約束させられたみたいで。あなたまで連れて行くことになったみたいで、相談されたんです」
 とたんに自分の表情が歪むのが分かった。よく考えてみれば、あの日の遼佑くんの行動の意味を新田さんが気づいていないわけがなかったんだ。彼女はきっと遼佑くんほど鈍感じゃなくて、自己中心的な性格でもないみたいだ。
 そんなあたしの感情を表情で読み取ったらしい新田さんもますます困ったように笑った。
「知ってるんですね、わたしと見吉くんが恋人だったってことは」
 あたしはどう答えていいか分からず、静かに頷いた。あまり込み入ったことは聞いてはいけない気がしていた。少なくとも遼佑くんからは聞きたくなかったから、結局あまり知らないも同然なのだけれど。
「まったく失礼な話よね。元彼女に今の彼女のことを相談するなんて。まぁ、後腐れなくて良いのかも知れないけど」
 小さくため息を吐きながら話す新田さんは、あっ、と慌ててあたしの方を向いて手を横に振った。
「ごめんなさい、違うんですよ? 別に未練があるとかヨリを戻したいとかじゃなくて」
「あ、はあ」
 たぶんそれは彼氏の方だと思います。――なんて言ったら、新田さんはどんな顔をするだろう。
「それにわたしね、来年結婚するんです」
 ああ、けっこん……。……へ? ケッコン? 血痕?
「え、ええ!?」
 思わず叫んでしまった。新田さんはそんな反応が心底おかしそうに、さっきまでとは違う笑みを浮かべて、口元に手を当てながらくすくすと笑った。笑いを堪えているような仕草だ。
 でも、だって、だって。
「お相手って……聞いてもいいですか?」
 恐る恐る尋ねてみると「くすっ」と一つ笑いを漏らして新田さんは頷いた。
「優しい人です。わたしを第一に考えてくれる人なんです」
 新田さんが本当に幸せそうに言うから、あたしまで温かな気持ちになる。羨ましい、と思った。他人を第一に考えられるなんて、なかなかできることじゃない。新田さんもそれが分かってるから、こんなに幸せな表情を作れるくらい相手のことを想えるんだろう。今のあたしと遼佑くんにはきっとできないことだ。
「だから仕事も今までどおりするし、でも甘えるばかりじゃなくて、わたしにも甘えてほしいなって思って、プロポーズを受けることにしたんです。家事はけっこう苦手みたいなの、彼」
 お互いがお互いを支え合うって、こういう関係を言うんだろうな。新田さんにとってそれは遼佑くんじゃなかったんだ。それがよく分かる気がする。遼佑くんと新田さんが別れる理由を遼佑くんを通してでしか知らなかったけど、たぶんそのままの二人だったら結局合わなかったと思う。新田さんも遼佑くんも甘えたいってのが先にあって、甘える相手を探していたんだろうから。遼佑くんがあたしに無茶を言ってくるのも、新田さんが今の彼を選んだのも、根底にあるのは同じものだったんじゃないだろうか。
「幸せですか?」
 言って、愚問だったと気づいた。こんな素敵な表情をしていて幸せでないはずはないのに。
 新田さんは一瞬きょとんとして、それからふわりと頬をほんのり染めた。
「ええ、とても」
 口元に当てられた指の先に見えた小さなリング。新田さんが受けたとっておきの愛がそこにあって、その送り主は遼佑くんではない人なのだ。遼佑くんではないその人でしか、だめだったんだ。

 新田さんが帰って、しばらくあたしはぼうっとその部屋で過ごした。特に考えることもせず、テレビや雑誌を見るでもなく、無音の世界の中で空に視線を泳がしていた。
 彼女は綺麗だった。美しかった。素敵だった。羨ましかった。幸せそうな笑みが浮かんで、果たしてあたしにあんな表情が作れるかとやってみたが、作ろうと思ってできるものではないのだと気づいた。そんな当たり前のことを、どうして今になって気づかされるのだろう。
 それでいて切なくなった。なんだろう、この気持ちは。胸が締め付けられる、この苦しい感じの正体は、霞のようにうやむやとして実体のない、途方もなく目の前を消してしまうもののように思えた。遼佑くんがいくら新田さんを想っていても、彼女はすでに見つけてしまったのだ。遼佑くんもあたしではない、他の誰かを見つけてしまうのだろうか。あたしよりもずっと彼を包み込むことができる人を、いつか――。その時あたしは、一人で朝日を見つめることができるだろうか。

 鍵の開く音が聞こえた。ちょうど準備を終えたところだったので、あたしはすぐに玄関へ出向いた。あたしに気づいた遼佑くんは驚いた顔をした。
「もしかして、ずっと居たのか?」
 あたしは遼佑くんの荷物を手に取って、まあね、と答える。
「特にやることもなかったから。ご飯もできてるの。先に食べる?」
「ん、食べる」
 あたしが今まで自分からこうして遼佑くんを迎えたことがなかったからだろう、まだ戸惑う様子の彼を背に、あたしは先にダイニングへ戻った。
「書類は分かった?」
 席に着くなり遼佑くんが聞いてきた。今朝の電話のことだろうとすぐに分かったので、あたしも頷きながら席に座る。
「うん、ちゃんと渡した」
「そうか」
 ほっとしたように彼はコップを手にしてお茶を飲む。
「新田さん、結婚するんだってね」
 あたしが言った途端、遼佑くんは飲んでいたお茶を噴出した。料理には飛び散らなかったが、そこまで驚くことだろうかとあたしは慌てて布巾を渡す。
「けほっけほっ」
「大丈夫?」
「だ、いじょうぶ。つか、なんで遙が、知ってるわけ」
 まるであたしが知ってちゃいけないみたいな言い方をされて、少しムッとする。
「新田さんから聞いたの。遼佑くんはいつ知ったの?」
 遼佑くんはあたしから視線をずらして、言いにくそうに早口で呟いた。
「1ヶ月前くらい? 今年いっぱいで退職するって。皆知ってることだ」
 ……それって、この前の食事会のときはすでに知っていたってことじゃない。ていうか、同窓会があったときから知っていたってことだ。なに、その、計画的犯行は。
「そんな、睨むことないだろ。お前には関係ないじゃないか」
 いつの間にか無意識的に視線が鋭くなっていたらしいあたしに、遼佑くんは恨めしそうに言う。確かにあたしには関係のないことだ。だけど、なんだか、釈然としない。
 自分でもよく分からないけど、腹立たしいのだ、この目の前の男が。
「別に」
 別にどうでもいい。遼佑くんが何を思ってあたしに「彼女になれ」なんて言ってきたかなんて、今更どうでもいいことだ。
 それが新田さんのこととどう関係していようと、あたしにはどうでもいいことなんだから。
「遙、なに怒ってんだよ?」
「怒ってないってば。早く食べようよ」
「声が不機嫌だぞ」
「そんなことないって」
「遙……」
 遼佑くんが困ったようにあたしを睨む。あたしはそれを無視して食べ始めた。
 沈黙が流れ、かちゃかちゃと食器のあたる音だけがする。
 嫌な空気。こんなつもりじゃなかったのに。
「食べたら帰るのか?」
「そのつもりだけど」
 本当は今日も泊まろうかと思ってた。だから一旦アパートにも戻ったりしたけど、こんな雰囲気の中二人きりなんて気まずすぎる。
「泊まっていけよ。風呂も沸かしてくれたりするんじゃないのか?」
 なんで分かるのよ。あたしの行動なんてすべて遼佑くんのためだって、さも当然のように思ってるわけ。
「そうだけど、帰る」
 今日はこの片づけだってしてやらないんだから。
「帰るなって。風呂も沸いてるんだし」
「だから?」
「せっかくだし一緒に入」
 言い終わる前にたくあんを束で彼の口に押し込んだ。
「それ以上言ったら本当に帰る。もう二度と来ない」
 遼佑くんは何度も首を立てに振って、あたしの箸が離れると急いでご飯を一緒に詰め込んだ。息苦しいのか、たくあんの塩辛さのせいなのかは分からないけれど、彼の顔は苦しそうに歪んでいる。そっとお茶を注いであげた。
「でもベッドは二つも買わないからな」
 ようやく大量のたくあんを胃の中に流し込んだ遼佑くんが言った。涙目になっているのが可笑しかった。
「分かってるわよ」
 慌ててそっぽを向いたけれど、あたしの頬が赤くなるのが分かった。