モーニング・キス

act6.1


「えっ? あんた達ってまだヤってないの!?」
「ちょ――っ、声、大きいってば!」
 あたしは慌てて目を真ん丸くさせて驚く朋子の口を塞いだ。公衆の面前でなんてことを叫ぶのだ、この子は。真っ赤になって恥ずかしがるあたしをよそに、当の本人はあっけらかんとして意に介してない様子だった。ふがふがとわけの分からない言葉を発してあたしの手をどかす。
「いやだって、付き合いだしたのいつよ? しかも何度も泊まったりしてんでしょ? それで何も手を出されてないって、おかしくない?」
 信じられないとでも言いたげな表情でそう言われて、そこまで思っていなかったあたしも「そうなのかなぁ」と眉を寄せる。そういうものなのかなぁ。キスはされるし、抱きしめられることもあるけど、それだけじゃだめなのかな。変なのかな。おかしいのだろうか。
 というかそもそもどうしてこういう話になったんだっけ。
 今日は朋子からメールで一緒に昼ごはんでも食べようっていう誘いがあって、行ってみれば結局はいつもの相談というか愚痴を聞くことになって、それで純とはその後どうなったのというのをあたしから聞いたんだった。
 それで、ええと、それで……?
 どうしてあたしと遼佑くんの話になったんだっけ?
 もう、朋子が変なことを言うから、思い出せなくなった。確か純とはメアドを交換して、デートの約束がどうのって、そういう話になったんだ。で、……で?
「あのぅ朋子さん、少しよろしいでしょうか」
 恐る恐る朋子の表情を伺いながらあたしは言った。何、とやる気のない顔で朋子は食事の後の紅茶を口に付けた。
「どうしてあたし達、そういう話になったんだっけ?」
「は?」
「朋子は純とのことであたしを呼び出して、どうしてあたしの話になったんだっけ」
 そうして朋子は眉間に皺を寄せて少し考えてから、だから、と美味しそうに湯気を立てる紅茶のカップを置いた。
「何回目のデートで体を許せるかって話でしょ」
 何を今更と呆れた顔をされたけど。あたしの頭はますます混乱する。
「それっておかしくない?」
「何が?」
 何がって……全てじゃない?
 あたしの頭の中はクエスチョンマークで溢れかえっている。
「そういうのって自然の流れっていうか空気というか、そんなもんなんじゃないの? ……と思うんだけど」
 これっておかしいのかな。あたしだけ? でも実際遼佑くんだって一緒のベッドには寝るけど、その、関係を持つようなことはしてこないし。っていうかキスだって、ベッドの中じゃ絶対にしないし。え。あたしが変なのかな?
「ありえないでしょ。ありえないよ」
「……うそだぁ」
「何が嘘なの。普通好きな相手なら触れたくなるし、全て知りたいって思うもんじゃないの」
「全てって、体?」
「体も心もってこと。それこそ過去から未来まで、その人のことは何でも知りたいって思うでしょうに」
 ――うそ……だあ……。
 だってそんなこと全然なかったもん。
 そりゃ新田さんのこととか、何があったかなんて知りたいに決まってる。でもさ、それって別の話じゃない? 遼佑くんが今どんな仕事をしてるのかって知りたいけど、ていうか実際聞いたけど、でもそれも別の話でしょ。それともそういうのが全て好きだからっていう理由に繋がるのかな。そしたら、それを全然聞かれたことのないあたしって、好きだって思われてないってこと?
 わけわかんない。朋子の言ってることは、全部嘘だよ、ねえ。
 嘘だよ。過去を知ってそれでどうにかできるものじゃないし。でもそれでも知りたいって思うのが恋? そんなのだったら、あたしは要らない。そんな気持ちなんて、どぶ川にでも捨ててしまえ。
「ハル?」
 不意に朋子の声が届いた。いけない。すっかり自分の世界に入ってしまっていたようだ。
「あ、ごめん」
 たはは、と笑って誤魔化してみる。まあいいけど、と朋子は紅茶を飲み干した。
「それで朋子と純って、ホントに付き合うことになったの?」
 朋子は難しい表情を作ってカップを置いた。
 なんだか、昔から知ってる二人がそういう関係になるなんて、ちょっとおかしい。不思議な感じ。純にいたっては生まれた頃から知ってるし、だからといって今までの彼女遍歴というのは知らないのだけど……。
「付き合うことになるかはこれから次第ってとこかな。とりあえず二人で会えるようにはなったくらいで」
「ふぅん」
「それでハルの協力は必要不可欠なわけ。だいたい純くんが私のことどう思ってるかが分からないし」
 そうか。そうだよね。まだ告白したとか、そういう段階じゃないんだ。二人はまだ出合ったばかりなんだし。普通は朋子たちみたいに段階を順序だてて進んでいくんだよね。
「あたしから聞いてみようか?」
「うん。お願い。……あ、でも私から頼まれたって悟られないでね」
 顔を少し赤くして声を小さくする朋子はなんだか可愛い。自然と笑みがこぼれた。
「分かってる」
 あたしがそう言うと、朋子の肩の力が抜けるのが分かった。
「私も聞いてあげようか? 見吉くんに」
「え? 何を?」
 キョトンとするあたしに朋子はフフ、と微笑んでみせる。
「どうしてハルに手を出さないの? って」
 途端に顔から火が噴き出るみたいに赤く染まっていくのが分かる。
「絶対やめて」
 あたしが睨み付けると朋子は肩を竦めて「分かった」と言った。本当に分かってくれただろうか? そんなことをされて後で何かを言われるのはあたし自身なのに、分かっているだろうか。
「そんなことしたら怒るからね」
「はいはい」
 あたしも自分の紅茶を一口で飲み干す。すでにここへ運ばれてきてから数分経っていて、冷たい。

 その日の夜、珍しく純から電話があった。やはり二人はお似合いだなと思いつつ、指定されたレストランへ向かう。そこは純の仕事を手伝った後によくランチを純が奢ってくれる場所で、けれど夜に行くのは初めてだった。昼間とは違う大人びたシックな装飾のライトに変わっている店の中は、まるで知らないレストランだ。
「いやまさか、遙をこんなふうに呼び出す日が来るとは、夢にも思わなかったな」
 席に着いて注文をした後、そんなことを純が呟いた。それにはあたしも同感だった。
「あたしもこんなふうに呼び出される日が来るとは思わなかったよ」
 お互いに照れくさいような恥ずかしいような、居たたまれない雰囲気におかしくなって笑い合った。
「でもさ、あたしとしては奢りだなんて有難いんだけど、朋子のことなら本人に言った方が早くない?」
 あたしが言うと、純は困ったように笑って、その爽やかなまでの表情に、ああきっとこれはもう癖なんだなと思った。
「だって神田さんは一応年上だし。俺、年上の人と付き合ったことないから、どうしていいか分からないんだよ」
「そうかもしれないけど、あたしと同じ年だよ? あたしと同じように振舞ってれば良いと思うけどな」
 すると今度は本気で笑われた。なんだか良い気持ちがしないのは気のせいではないと思う。
「遙とじゃ全然違うよ。ていうか、遙を年上の女として見たことないし」
「じゃあどんなふうに見てるって言うの」
「んー、妹? 女友達? 何でも言い合える親友? あ、仕事のときは戦友かな」
 なにそれ。友達はいいとして、妹って、明らかに立場は純の方が上ってことじゃないの。
 不満げな顔をして見せると純はまた笑った。
「まあ良いじゃん。とにかく遙と神田さんとじゃ根本的に違うんだって」
 それは分かるけど。妹って。妹って、ひどくない? あたしの方が2歳もお姉さんなのに。
 あたしってそんなにしっかりしたように見えないのかな。まぁいいけど。純にどう思われたっていいけどさ。
「だからどうしたら良いかなと思ってさ。一応デートの約束は俺からしたんだけど」
 ああ、そんなこと、確か朋子もしてたっけ。朋子はその先のこともずっと考えていたみたいだったけど。
「良いんじゃない? デートってことは告白もしたの?」
「それは、……まだだけど。とりあえずってことで、デート」
「ふうん」
 のどが渇いたので水に手を伸ばす。何を言ったって、結局二人は相思相愛なのだとよく分かったので、あたしとしては特に言うこともなかった。
「神田さんってロマンチックな方が好きなのかな。それとも逆に引くタイプ?」
 ぶっ。あたしは口に含んでいた水を危うく吹き出しそうになった。ロマンチック? 純からそんな単語が出てくるとは思わなかった。
「何だよ、俺がロマンチストじゃ悪いってわけか?」
「ちが、ごめん、そうじゃなくて、ケホッケホッ」
 不機嫌そうに睨み付けてくる純に慌てて手を振って否定する。あ、やばい、変な所に水が入った。
 何度か咳をして、何とか落ち着ける。ふぅ。
「そんなに不安だったら、友達のカップルとダブルデートでもすれば良いじゃない? 要は二人きりだと不安なんでしょ」
「は……?」
 純は呆けたような表情になったけれど、あたしとしては何も考えずに言ったことの割には良い考えだと思えた。
「だからダブルデート。それだったら行く場所はだいたい決まってくるし、細かい演出とか考えなくて済むかなって。まあ純が演出にこだわりたい真性ロマンチストだっていうなら話は別だけど」
 ちょうどそこへ注文した料理が運ばれてくる。純はハンバーグ定食、あたしは根菜サラダとSサイズのマカロニグラタンだ。
 早速根菜サラダに手をつける。うん、やっぱりここのサラダは美味しい。
 しばらく黙って食べていた純は、ハンバーグを半分ほど食べたところでフォークとナイフを置いた。
「じゃあそれ、遙と遙の彼氏に頼むけど、いいよな」
「え? 何が?」
 マカロニグラタンから顔を上げると、真剣な顔をした純があたしを見下ろしていた。それって、どの話をしていたっけ。
「だから遙がさっき言ってたやつ。ダブルデート」
「え、あ、ああ」
「言っとくけど、遙が言い出したことなんだし、責任は取れよ?」
 え? それって、横暴じゃないですか?