モーニング・キス

act6.2


「――っていう話にね、なっちゃったんだけど」
 純と朋子とあたしと遼佑くんでダブルデートをすることになった経緯を、遼佑くんに大まかに説明することができたのは、純にレストランで奢ってもらった日からちょうど三日後の夜だった。というのも遼佑くんの仕事がいろいろと大変だったみたいで、彼がマンションに帰ってこられるのが深夜を回る日が続いて、あたしと時間的にすれ違いが続いていたからだ。そしてちょうど三日後の今日、ようやく遼佑くんの仕事もひと段落着いたみたいで、あたしが起きているうちに遼佑くんが帰ってきたというわけだ。本当はメールで知らせても良かったと思うけど、長い文章を携帯に打ち込むのはあたしにとって至難の業なのだった。
「ふぅん。良いんじゃないか、別に」
「ほ、ほんと?」
 絶対に反対されると思っていたので、この返事は素直に嬉しかった。だってそういうの、面倒くさいとか言って拒否しそうな性格だと思っていたから。やっぱり純と朋子のためっていうのを強調したおかげかもしれない。
「考えてみれば俺らもしたことないし。便乗って言えば言葉が悪いのかもしれないけど」
 あ、なんか、素直に嬉しいかも。遼佑くんがそんなふうに考えてくれただけでも嬉しいと思った。
 あたしは自然に自分が笑顔になるのを自覚しつつ、そのまま彼から受け取った上着をハンガーへ掛け、寝室からリビングへ夕食の準備をしに移動する。それから間もなくして遼佑くんもスーツから普段着に着替えるとリビングへ戻ってきた。
「そういえば先月の光熱費、すっごく少なくてびっくりしちゃった」
 席に着いて食べ始めてからこうして話しかけるのは、だいたいがあたしからだ。遼佑くんは黙々と食べるからあたしが何も言わなければそのまま食べ続けるだけで、時々、そんな食べ方でご飯は美味しいのだろうかと思うときがある。
「光熱費って、向こうの?」
 あたしが話しかければ無視せずに返事をしてくれるから良いけど。
「そう。あたしのアパートのね。やっぱり遼佑くんとこに来ることが多いからかな」
「だから言っただろ。こっちに来れば家賃だって払わなくて済むのに」
 何でもないことのように言う遼佑くんにあたしは少し眉を寄せた。こっちに来ればって簡単に言うけど、それって同棲ってことでしょ。そんなこと、簡単に言わないでほしい。確かにメリットの方が多い気もするけれど、やっぱり違うと思う。
「遙が嫌なら無理にとは言わないけど。俺としてはその方が嬉しいってだけだから」
 あたしはさらに顔を難しくさせる。その言い方、すごく微妙なんですけど。暗に来いって言ってるようなものじゃない。そういう言い方をされると困るだけってこと、きっと分かってるんだろう。
 ああ、どうしてだろう。さっきまでは良い気分だったのに。あたしが光熱費の話をするからいけなかったんだわ。
 でも正直言って、遼佑くんとの会話って今ひとつ難しいのよね。仕事の話はあまり……っていうかほとんどしてくれないし、趣味とかもこの部屋を見てる限りじゃ無さそうだし。それにあたしの話をしても多分つまらないだろうし、そもそもあたしも人に言えるような趣味を持ってないんだ。本を読むのは昔から好きだったけど最近はそんな時間もほとんどないし。仕事の話をするにしたっていつも同じ作業って感じで、まあそれなりにやりがいはあるけど、それだって言っても伝わらないくらいのほんの些細なことだったりする。
 なんてことをただひたすら考えていたら、いつの間にか遼佑くんは全て食べ終えていて、食器を片付けに席を立った。そういうことはちゃんとしてるなっていつも思う。
 几帳面なのか知らないけど掃除はいつも細かいし、気に食わないところがあったらあたしに隠れてこっそりとやっているのを、実は知っているんだ。知ってるってことに気づかれたら嫌な顔をするのは分かっているから、絶対に知らないふりをしているけど、初めて気づいたときは少しショックだった。まぁ、今は逆に有難いと思っているけどね。
 それともう一つ、家事にしても遼佑くんは何も言わないでもやってくれる。もともと、っていうか今も、この部屋の主は遼佑くんなんだからそれは当たり前なのかもしれないけど、あたしがこの部屋へやってきてから家事全般はあたしがすることが多くなって、今ではほとんどをあたしがやってると言ってもいい状態だ。その中で遼佑くんも掃除にしろ食事の後片付けにしろ、何も言わないでやってくれるから、あたしは今までこうして苦に思わずに食事を作ったり洗濯をしたりできたんだと思うの。こういうことって結構大事だ。でなかったら本当にあたしは家政婦でしかなくなってしまうもの。
 遼佑くんは初めからあたしを家政婦じゃなくてカノジョとしてこの部屋に入れてくれていたんだって、今なら分かる。気づきにくいけど、要らないところばかり気づいてしまうあたしだけれど、それでも彼なりの小さな優しさに気づいたときは、あたしはいつだって嬉しくて胸が苦しくなる。不意に泣きそうになってしまう。苦しくて苦しくて、ほんの少しだけ甘い。
「コーヒーでも飲むか?」
 あたしの分まで食器を洗ってくれた後、遼佑くんはリビングで寛いでいたあたしにそう声を掛けてきた。クッションを抱きかかえながらソファに体育座りをしてテレビを見ていたあたしは驚いて彼の方を振り向く。
「え、コーヒーなんてあったっけ?」
 思い出そうとしてもコーヒーの豆はおろか、インスタントさえどこにもなかったはずだ。一応遼佑くんよりはキッチンに入っているのはあたしだから、知らないはずはないのに、と思う。
「買ってきた。インスタントだけど。食後が水かビールってのもどうかと思って」
「麦茶もあるけど」
 以前新田さんが来たときに買ってきたパックの麦茶は、まだ半分ほど残っている。
「あ、まじで。じゃあ麦茶にするか」
 そう言って台所へ引き返そうとする遼佑くんにあたしは少し慌てる。
「やっ、コーヒーの方がいいな」
 遼佑くんは振り返って笑った。
「どっちだよ」
 あたしも笑う。そりゃ断然コーヒーですよ。麦茶も好きだけど、温かいものならコーヒーの方が好きだ。そりゃ、断然。
 インスタントとはいえども、遼佑くんの入れてくれたコーヒーは美味しかった。二人並んでソファに座り、熱いコーヒーをすすりつつテレビを見る。こんなゆったりとした時間もここ最近はなかったから、なんだか嬉しいし、楽しいし、癒される。
 お腹もいっぱいだし、コーヒーで心も満たされて、こんな静かな時間の中にいたら自然と眠くなってきた。ああでも、この番組も好きなんだよな。毎週楽しみにしてるんだからまだ眠りたくない。
 でも……、瞼が、重くて。
「もう一杯入れようか?」
 不意に頭から声がした。コーヒーのお代わりを入れてくれるらしい。そうよね、カフェインでも摂って少しでも眠気がなくなるなら、そうしたい。この番組が始まってまだ20分もしてないのだ。1時間番組なのにあと40分もある。
「お願い」
「ん」
 遼佑くんが立ち上がってまたキッチンへと入る。そしてすぐに隣に戻ってきて、あたしにカップを差し出してくれる。あり難く受け取って口に付けると、その独特の苦味があたしの脳を直に刺激してくれるみたいだ。
「あれ、遼佑くんは?」
 持ってきたカップが一つだったのに気づいて聞いてみれば、遼佑くんはテレビを見たまま答えた。
「俺はいいよ」
「ふうん」
 ああ、温かい。でもおかしいな。余計に眠くなってきちゃった。
 瞼が重い。眠りたくないのに。
 あ、ほら、あたしの好きなタレントが出てる。関西出身の彼はもともとモデルで、けれど今は俳優業にも手を伸ばしていて、ドラマではカンペキな共通語を話してる。なのに、バラエティのフリートークだと独特の訛りが隠せずにいて、それがとても可愛い。最近バラエティには出ないから、今日は特に楽しみにしていたのに。
 あぁだめだ。瞼が落ちる……。
「……遙?」
「ん?」
 完全に目を閉じてしまったあたしの肩を、隣に居た遼佑くんがそっと抱き寄せてくれて、こてっと彼の肩に頭を乗せる。気持ちいい体勢ですぐにでも眠ってしまいそうだ。賑やかなテレビからの音と、優しい遼佑くんの声が重なって、本当にまどろんでいく。
 するりと手からカップが離れていく。たぶん遼佑くんが代わりにテーブルへ置いてくれたんだと、休みつつある頭で理解する。
 さわさわと髪を撫でてくれる。それがとても心地よくて。あたしは美容院でもよく眠ってしまう体質だからその心地よさに脳が麻痺していくのが分かる。安心する気持ちよさを与えてくれるのは他の誰でもない遼佑くんで。
「遙、寝るなら布団に入れ」
 まるで子供に言い聞かせるみたいなセリフに、あたしはふふっと笑った。
「お父さんみたい」
 その瞬間、あたしの髪を撫でていてくれた手が止まった。どうしたんだろうと思ったのも一瞬で、少し体を起こされてやってきたのは、柔らかくてあたたかな感触だった。
 ゆっくりと目を開ければ少し怖い顔をした遼佑くんがあたしをまっすぐ見つめている。
「父親は子供にこんなことしない」
 言って、今度は強く深いキス。何度も角度を変えて啄ばまれて、わずかに開いた隙間から執着に絡まれて、息ができなくなるほど 激しくされた。
 それでも――。
「分かったろ? 俺は遙の親父じゃない」
「……うん」
「分かったら布団に入って寝ろ、な」
 優しく囁く声。あたしを思ってのことだってことは知っている。
 息の上がったあたしの目からは静かに涙が流れた。それを指で掬ってくれる遼佑くんの表情はもう怖いものではなかった。
 でも涙は止まらない。ただの生理的なものじゃないって、あたしは知っている。