モーニング・キス

act6.3


 どうして思い出しちゃったんだろう。朋子の言葉を、こんなときに思い出さなくてもいいじゃないの、と自分でも思う。
――それで何も手を出されてないって、おかしくない?
――普通好きな相手なら触れたくなるし、全て知りたいって思うもんじゃないの。
――それこそ過去から未来まで、その人のことは何でも知りたいって思うでしょうに。
 本当にそうなのかな。ただ待っててもだめなのかな。ていうかおかしいのかな、あたし達。確かに始まり方は普通じゃないとは思うけれど。でもあたしはちゃんと好きだって思えるから、それでもいいかなって思ってた。それだけじゃだめなのかもしれない。
「遙?」
 遼佑くんは驚いたようにあたしを見つめる。あたしは遼佑くんの服を握り締めていた。わずかに手が震えているのが恥ずかしいくらいに分かる。それでもたぶん、あたしから彼に触れたのは初めてかもしれなかった。
「寝る……」
「あ? あ、ああ」
 先に寝てて良いから、と言う遼佑くんにあたしは首を横に振った。そうじゃなくて。
 羞恥で顔が赤くなる。もしかしたら全身が茹蛸みたいに真っ赤に染まっているのかもしれない。心臓が壊れそうなほど波打って、熱い。
「一緒に、……」
 もうまっすぐに目を向けることができなくて俯いた。それでも遼佑くんの息を呑む音が聞こえて、彼がひどく驚いていることが伝わってきた。きっと目を大きく見開いて丸くさせているんだろう。
「遙……?」
 遼佑くんが怪しそうにあたしの名前を呼ぶ。今まで涙を拭ってくれていた指は相変わらず優しかった。
「何かあったのか?」
 違う、とあたしはもう一度首を振った。
「遙?」
 それでもなお遼佑くんは腑に落ちないといった声音であたしの名前を口にする。慣れないことはするものじゃないと後悔した。けど、同時に不安も募ってくる。あたしが精一杯頑張ってるのに、どうして応えてくれないんだろう。あたしがいつもと違うことをするから? 普通じゃないから?
「お前、変だぞ。とにかく寝ろって。な?」
 あくまでも優しい声で遼佑くんはそう言ってくれる。あたしのためだって分かるけど。でも、あたしが欲しいのはそんな言葉じゃないって、遼佑くんも分かってるよね?
 顔を上げれば予想通りの困ったような顔の遼佑くんがいる。
 あんなキスをするくせに。どうして。
「遼佑くん……」
 あたしは今どんな顔をしているだろう。涙は止まったけれど、まだ泣きそうな顔をしているだろうか。それとも物欲しげな淫乱な女の顔になっているだろうか。こんなのあたしらしくないって、分かってるけど、思い出しちゃったんだもん。朋子の声が耳の後ろで響いて、すごく不安になったんだ。ねえ、遼佑くん。あたしは今どんな顔をしているの。
 遼佑くんの顔はすごく厳しく、困ったように歪んで、あたしを見下ろしていた。
「……あたしのこと、好きじゃないの?」
「はっ? なんで」
「だって……」
 好きじゃないから、手を出さないんだって、朋子が言っていたから。言われるまではあたしだってそんなの、違うって思ってたけど、でも遼佑くんも朋子と同じような考えだったならあたしはどうすればいいか分からないもの。
 なんてスラスラと言えたらいいのに、実際は言えるはずもなくて、あたしは再び俯くしかできなかった。
 遼佑くんはぐっとあたしの体を引き寄せて抱きしめてくれた。ドクドク、と鳴る彼の心臓の音がなぜか心地よく頭に響く。もしかしたらこれは自分の音かもしれないけれど。
「好きじゃなかったらこんなことしない」
 そういえば遼佑くんは、いつもあたしに説明をするときはそんな言い方をする。家政婦だったらこんなことはしない。父親だったらこんなことしない。それは全てカノジョだから、父親じゃないから、好きだから、という意味で言ってるんだろうけど。
 そんな回りくどいような直接的なような、曖昧な方法は、いつだって遼佑くんらしくなかった。
「じゃあどうして……?」
 遼佑くんのことは分からないことばかりだ。初めからそうだ。中学のときの三年間だって大して知らなかったのに、今でも知らないことの方が圧倒的に多い。あたしは知りたいのに、遼佑くんはあたしのこと、知りたいと思ってくれないの?
 ぎゅっと力いっぱい抱きしめてくれる遼佑くんの腕に甘えて、あたしも彼の服を握っていた手に力をいっぱい込めた。
 遼佑くんはそっと髪を撫でてくれた。
「そんなの、決まってるだろ」
 少しいつもより低い声があたしの耳元で聞こえた。
「自分を抑える自信がないんだ。……こんなこと言わせるなよ」
「え――?」
 それってどういう……?
 遼佑くんの表情が気になって顔を上げようとしたら、髪を撫でていた手で頭を押さえつけられた。心なしかさっきよりも心臓の音が早くなっている。それはまた、あたしの心臓かもしれなかったけれど。
「お前、俺が初めてなんだろ、付き合った男って」
「え、なんで」
 どうして知ってるの。そう聞く前にため息混じりに遼佑くんが答えた。
「同窓会で散々神田に言われてたから。だからゆっくり行こうと、思ってたのに、お前……」
 ゆっくり? え、冗談でしょ? 思い切りいきなりで唐突でしたけど?
「なんで俺と同じ路線の駅なんか……。聞いたらすげえ近いとこに住んでるって言うし」
「え、それって、偶然でしょ」
「当たり前だ! じゃなかったらもっと早く近づいてたっつうの」
 ん?
 その言い方ってまるで。
「……ずっとあたしのこと好きだったってこと?」
「ていうか気になってた。新田と別れて、同窓会の知らせが来て、久しぶりに中学の卒アル見たら俺と遙が一緒に写ってるのに気づいて。ああ、こういう奴だったらなって思ってたんだ」
 そんな写真、あっただろうか? 全然記憶になかった。
 あの頃の遼佑くんって、ほんと、存在感が無かったっていうか……。まあ個性的だってのは変わらないんだろうけど。
「前にも話したと思うけど、新田とは何ていうか、タイミングが悪かったんだ。お互い仕事重視で、二人で会ってもどこか気が抜けないっていうか、さ。でも遙って中学のときからどっか抜けてて、男みたいにサバサバしてるんだけど、放っておけないっていうか。そういう奴の方が俺には合ってるのかなって思ったんだ、写真見てて。新田みたいに自分で何もかもしようとする奴じゃなくて」
 ……そんなのだったか、中学のときのあたし?
 それでも何となく分かった。
 新田さんも遼佑くんも、お互いがお互いを本当に必要とはしていなかったんじゃないか、って。今の新田さんの彼氏は弱い彼女の部分も包める人で、だから新田さんは遼佑くんじゃなくて今の彼氏を選んだんじゃないか、って。そんな気がした。
「分かれるときもさ、既に新田には今の相手がいて、まあ二股になる前の清算って感じだってのが分かってて。それもあるかもしれない。俺にだって大事な女は居るんだって、あいつに見せてやりたかったのかもしれない」
 それはたぶん、初めてあたしが新田さんと会った時のことを言っているんだろう。
 やっぱりどこか未練はあったんだと思う。それがどんな思いであれ、あたしは良い道具でしかなかったんだろう。
 それでも良いと、今は思えるけど。あたしを選んでくれて良かったと、寛大なあたしは許してやろうと思う。
 あたしは新田さんじゃない。どこか抜けてるお人よしだから、どんな遼佑くんも、こうして抱きしめてくれるなら、許してあげる。
 あたしは手を離して、遼佑くんの背中に腕を回した。ぎゅっと抱きしめる。広い男の人の体をしている。それでもあたしが抱きしめてあげたかった。
「あたしのことは……? 何か知りたいって思うこと、ないの?」
 聞いてばかりじゃ不公平だと、あたしがそう聞いてみれば、遼佑くんは静かに体を離した。
 鼻と鼻が触れ合うほどの距離で見つめあい、どうして? と彼が問う。
「俺は遙が俺の腕の中にいてくれれば、それで充分だけど? 何かを知ったところで気持ちは変わらないし」
「でもすっごく重い過去があるかもしれないよ。嫌いになっちゃうクセとかあるかもしれないよ」
「過去もひっくるめて今の遙があるんだし問題はないと思うし、そんな癖があるならもうとっくに知ってるだろ。どれだけこの部屋で同じ時間を過ごしてると思ってんだ?」
「でも今までは上手く隠してただけかもしれないし、本当は金遣いだって荒いかも」
「うるさいよ、遙。眠いんじゃなかったのか?」
 そう言って遼佑くんは軽くあたしの唇を啄ばんだ。
「それとも希望通り、寝られなくしてやろうか?」
 にやりと笑う遼佑くんは、やっぱりいつもの遼佑くんだった。嫌な汗が流れる。
「いやあ、何のことでしょうか。あたしはお先に……」
 そっと立ち上がろうとするあたしの手を引いて、待て待て、と遼佑くんは腕の中にあたしを抱きとめる。
「言っとくけど遙から誘ってきたんだぞ? 大人しくされなさい」
 そして何度もキスを顔中に降らす。額に、瞼に、頬に、唇に。
 いやいやと抵抗しても押さえつけられ、結局熱烈な口付けにあたしの体が言うことを聞いてくれなかった。
 うう、どうしてこんなことに……。
 やっぱり光熱費の話をしたから? それとも朋子の言葉を思い出したから?
――それでも。
 好きだよ、と囁いてくれたから、あたしは許してしまうんだ。
 その声や眼差しが、体中を撫でるその手がとても優しかったから。