モーニング・キス

act7.1


「ほら、遼佑くんっ、起きてってば!」
 本日は日曜日。いつもならあたしも自分のアパートで朝を迎えていて、こうして遼佑くんを起こすこともないのだけれど、今日は特別なので彼の要望どおり昨日の夜から泊まったのだった。土曜日の夜はまた会社での飲み会だったらしく、お酒を飲んだ次の朝は起きられないと言う遼佑くんをあたしはお越しにやって来たのだが……毎度の事ながらやっぱりなかなか起きてくれない。あたしはそれでも心得たように布団を引き剥がす。もう季節柄朝は毛布がなければ肌寒い気温で、だからこの方法はとても効果的だ。
「う、分かったから……毛布、返して」
 遼佑くんはそうしてようやく表情を歪ませて体を起こす。寒そうに少し体を震わせてから伸びてきた彼の手は、毛布を通り過ぎてあたしの腕を掴んだ。
「へっ?」
 思わず間抜けな声を出してしまうのも無理はなく。唐突に遼佑くんはあたしごと毛布をベッドの上へ引き寄せた。
「ちょっと、だから起きないとだめなんだって!」
 声を張り上げるも遼佑くんには届かないみたいで、毛布に包まるようにあたしの体も一緒に抱きしめる。寝ぼけてるのか冗談なのかが分からないくらいその力は強くて、あたしは思い切り抵抗するのにぴくりともしない。ああ、もう、時間がないのに!
「……遼佑くん」
 あたしはこうなったら、と自分の手を何とか持ち上げて彼の首筋にぴったりと触れる。あたしの手は今まで水に浸かっていたから少し湿っていて冷たいのだ。それを今まで寝ていた人の、しかも一番血管の集まる温かな首筋に当てたらどうなるかは、想像に難くない。
「っう!」
 間髪いれず遼佑くんの体は一瞬強張り、あたしを拘束していた腕が離れる。よしよし、とあたしは起き上がって彼を見下ろした。
「早く起きるの。待ち合わせに遅れるでしょ」
「わかったよ……ったく。容赦ねえなぁ」
 遙はひどいよと呟きながらベッドから起き上がる遼佑くんを仁王立ちしながら見ていたあたしは、はあ、と盛大な溜息をこれ見よがしに吐いてみせた。誰のせいよ、誰の。
「朝ごはん早く食べよう。待ってるからね」
 言って、あたしは寝室から出る。後ろから「ああ」と小さく返事が聞こえてからドアを閉めた。最近はいつもこんな感じだ。
 最初の頃はそれでも優しい声で言ってくれたのに、今じゃ溜息交じりの返事ばかりで、そもそも素直に起きてくれることもなくなった。あたしが甘いのがだめなんだと思って厳しくしたら溜息だし、これじゃあどこの熟年夫婦よって感じだ。
 ちゃんと付き合いだしてから、お互い気が緩んでるのかもしれない。何となく新田さんが遼佑くんよりも仕事を選んだのが分かった気がする。それを今言うのは卑怯な気がして絶対に口には出さないけれど。
「おはよう」
 寝室から着替え終えた遼佑くんが出てくる。あたしは調理具を片付け終えると、声を掛けてから席に着いた。
「はよ」
 まだ眠そうにして遼佑くんも向かいの席に座る。それを見てからあたしは「いただきます」と手を合わせて、箸をつける。遼佑くんも同じようにして朝ごはんを食べる。その間特に会話らしい会話もないのは、やっぱり慣れすぎだろうか。
「何時にどこだって? 待ち合わせ」
 食べながら、ふと思いついたように遼佑くんが聞いてきた。
「9時半に東京駅。車じゃないから早めに出ようと思うんだけど」
「ふうん。分かった」
 気のない返事にあたしは少しムッとする。
「それ昨日の夜にも言ったんだけど、覚えてないの?」
 今日は朋子と純とあたしたちとでダブルデートをする日だ。提案したのはあたしだけど、それに乗っかってきたのは純だった。朋子と純の恋の成就と、そしてあたしと遼佑くんの初デートと、二つの意味で今日は決戦の日なのだ。そんな特別な日にどうして遼佑くんはいつもと変わらないのだろう。それとも特別と思っているのはあたしだけなのかな。
 あたしが上目遣いに様子を伺えば、遼佑くんは「うーん」と思い出す仕草をしてみせる。
「聞いた気もする」
 それだけ言って、でもそんなことはどうでも良いみたいに遼佑くんは食事を再開した。やっぱり遼佑くんにとってはいつもと変わらない日みたいだ。そのことが少し憎らしくて、少し悲しい。
 でも――これだけで機嫌を悪くするのはもったいない気もするから、あたしは文句が出そうな口を閉じた。何より初デートだから朋子と純の仲を取り持つためのこの案を了承したのは遼佑くん自身だ。少なくとも面倒くさいなんて最低なことは思っていないだろう。
 食べ終えて食器を片付けようとすると、遼佑くんが片手を上げてそれを制した。
「片付けは帰ってから俺がやるから良いよ。それより時間だろ」
「え、でも明日は月曜だし、どうせまた一緒に帰ってくるんだから」
「良いって。それに明日は有給取ってるんだ。先月から休日返上で仕事だったし」
「あ……そうなんだ」
「そう。だから俺がやるから片付けはいいよ」
 にっこりと微笑んで遼佑くんは言った。それから立ち上がって二人分の食器をシンクへ持って行ってくれる。こういうところは相変わらず優しい。だから嫌いになれないんだろうな、なんて思う。
 キッチンから戻ってきた遼佑くんに促されるようにあたしは玄関を出た。そのあとに続いて遼佑くんも出てきて、ドアに鍵を閉める。いつも会社へ行く時と同じ行動なのに、お互いにスーツじゃなくて私服というだけで、なんだかドキドキした。
「東京駅なら1回乗り換えだな」
「うん」
 駅までの道のりの中、ぽつりと呟いた声に答えると、また遼佑くんは隣でこれからの道順と時間を計算しているみたいに考え込む表情になった。
「あ、そうだ」
 急に思い立ったように遼佑くんはあたしの方へ顔を向ける。何だろうと首を傾げる。
「手でも繋ぐか」
 言うなり彼の手があたしの手を掴んで、指を絡ませる。うわっ、とあたしの体温が上がっていく。
「えっ、なに」
「デートっぽいだろ」
「や、確かにそうだけど」
 この年になって手を繋ぐことがあろうとは、そしてそれがこんなにも恥ずかしいことだとは、思いもしなかった。
 ……けど、まあ。
 遼佑くんが楽しそうだからいいか。なんて人のせいにしたりして。

 手を繋いでやって来たあたし達を純がにやりと笑った。慌ててあたしが離そうとするけど、遼佑くんはお構いなしにさらに絡ませた指に力を込めて、あたしは焦っていいのか恥ずかしがるべきなのか大人しくした方が身のためなのか判断できずに、結局そのまま。
「ごめんごめん、待ったぁ?」
 9時30分を少しだけ過ぎてから朋子が最後にやって来た。あたし達より先に来てた純が「いや、そんなには」と爽やかな笑顔で答える。さっきまでのニヤリ顔が嘘のようで、あたしは少し呆れる。昔から見慣れてるとは言え、この裏表の差を朋子が知ったらどうだろうか、と心配してみたりもするのだ。
「うわあ、やっぱり見吉くんだ! 同窓会振りだねえ」
 ふと朋子が遼佑くんを指差して嬉しそうに言った。いきなり指を差された遼佑くんは当然のごとく驚いた顔になって、それでもようやく「おお」と頷いて見せた。
「久しぶり――な感じもしないな」
「だねえ。ハルから聞いてからかな。ほんとに付き合ってんだね」
「まあ、一応。……とりあえず行くか」
 これ以上朋子と付き合っていられないといった様子で遼佑くんが切り出すと、純もそれに頷いて賛同した。
 朋子が現れて力の抜けた彼の手からするりと離れて、あたしは朋子と並んで歩く。その後ろを純と遼佑くんが並ぶ形になった。
「話だけ聞いてたときはよく分かんなかったけどラブラブだね、ハルと見吉くん。手なんか繋いじゃってさ」
 クスリと笑って小声で言ってきた朋子にあたしは思わず固まった。完全に見られていたらしい。恥ずかしさで顔が赤くなるのが分かってしまう自分が憎らしく思えた。
「いや、あれは遼佑くんがっ」
 あたしも小声で言い訳をしようとすると、朋子は取り合わないといった様子で「ふうん」と意味ありげな笑みを浮かべる。なに、そのカオは。
「ねえねえ、ハルは見吉くんのことをリョースケくんって呼んでるんでしょ。ハルは何て呼ばれてるの?」
「え? 普通に遙って」
「へえ。ふうん。遙、ねえ」
「なによ?」
「わたしはてっきりハルたん♪ とか」
「そんな遼佑くん嫌だよ」
 彼女を殴らなかったあたしはとても優しいのだと思う。

「楽しそうですね、前の女性たちは。これってダブルデートじゃなかったんでしたっけ」
「俺もそんなふうに聞いてましたけど」
「なら早く遙を自分の横に持っていって下さいよ。神田さんは僕の隣に置くんで」
「……それじゃあ、もう俺の前で遙の名前を呼ばないでくれるかな」
 だからあたしたちは、後ろの男性陣がこんなやり取りを交わしていたなんて知る由もなかった。