Ich Liebe Sie

9


電車は静かにホームへ入る。いつも通りの人の流れと作られる列。私も工藤先輩も自然と開くはずのドアの前に一歩近づく。
「志奈」
 不意に呼び止められた。私の腕を掴んでいたのは確かに悠木くんだ。
 ……でも、今、『志奈』って。
 何が起きたのか分からないままで居る私は悠木くんから目を逸らせなかった。工藤先輩もきっと私たちを見ているんだろう。近くで先輩が止まった気配がした。
「……ごめん」
――ごめん、渡会。
 まただ。
 悠木くんの「ごめん」は私には伝わらない。何を謝っているの? 何がそんなに悠木くんを苦しめているの? 私はただ首を横に振るしかできない。それが悠木くんにどんなふうな意味を持たすのか分からないけど、私は悠木くんの「ごめん」を受け入れたくなかった。
 ドアが開く。人の波が入り乱れる。後ろで先輩が私を呼ぶ声がした。
 だけど私の腕はまだ悠木くんに捕まれていて。
「渡会っ」
 工藤先輩の声は閉められるドアによって塞がれた。
 動き出した電車の中、悠木くんは私の腕を離した。
 瞬間、泣きそうな顔をして私から目を逸らした。
「悪い、渡会」
 その一言で目の前が何も見えなくなった気がした。


 次の日、部室からキャンパスを持って帰った。しばらくは家で作業をしようと思った。見た目よりもかなり嵩張るし重いけれど、悠木くんの顔を見るよりはマシだった。
 どうして好きな人の顔を見たくないと思えるんだろう。毎日だって会いたい人のはずなのに、どうして……。
 そこでふと思いつく。結局自分が一番可愛いんだ。私は私が傷つくのを恐れているんだ。
 なんて最低で、なんて愚か――。

「ねえ渡会さん、話があるんだけど」
 部室に顔を出さなくなって3日目。いつものように真織ちゃんと食堂へ向かっていた途中の廊下で、私は古瀬さんに呼び止められた。決して柔らかい雰囲気ではない古瀬さんに、真織ちゃんは心配そうに私を見た。
「うん、わかった。真織ちゃん、先に行って食べてて」
 私はなるべく平然を装って真織ちゃんの方を向いた。だけど実際は心臓はバクバクと激しく鳴っている。真織ちゃんは静かに「分かった」と言って、その場を離れてくれた。
 真織ちゃんの姿が見えなくなると、改めて私と向き合った古瀬さんは、静かに私に近づいてくる。
「ここじゃなんだから。来て」
 古瀬さんは硬い口調で言った後、そのまま私の横を通り越して歩き続ける。私は慌てて古瀬さんの後を追うことになった。小柄な彼女にしては大股に足を進めているせいで、私は小走りになるしかなかった。そうして行き着いた先は校舎の一番端にある小教室だった。数百人入る大教室とは違って、小教室は中学や高校の教室とそう変わらない。違うのはテレビやビデオなどの音声機器が設置されているところだけだ。
 古瀬さんは一番前の机の上に腰を落とすと、細い脚を組んで私を見た。その目があまりにも強く私を見るので、私は入り口辺りで立ったまま動けなくなってしまった。
「最近部室に顔を出さなくなったって先輩から聞いたけど、どうして?」
 どうやら古瀬さんは、居酒屋の時もそうだったけど、思ったことは何でもストレートにぶつけてくる人らしい。
「家でやった方が時間も気にしないでできるから」
 古瀬さんの目つきが少しだけ変化して、私は慌てて付け足した。
「悠木くんから聞いてない? 私、今のペースだと間に合わなくて」
 少し笑って見せるけれど、これがいけなかったようだ。
「明良がわたし達の前で渡会さんの話をしたことなんて一度もないよ」
 なんとなく、決定打を受けた気がした。どうして私のことを隠すようにしているんだろうと思う前に、友人に話す必要もない存在なのかもしれないという、絶望感に似た気持ちが襲う。
 更に続けられた古瀬さんの言葉に、私はついに何も言えなくなった。
「だからわたしはずっと、明良は野村先輩が好きなんだと思ってたのに」