Ich Liebe Sie

10


「渡会さんが来なくなって明良の様子がおかしいのよね。分かってると思うけど、わたしも明良のことが好きだから。好きな人が落ち込んでるのを見てると辛くなるわたしの気持ち、分かるでしょ? その原因の渡会さんに話を聞こうと思ったの」
 強い口調で話す古瀬さんに私は何も言えなかった。考えることすらできなくて、ただ古瀬さんの言葉を理解することで精一杯だった。
 悠木くんが落ち込んでいる……?
 しかもどうして私が原因なの……?
 だって悠木くんが好きな人は古瀬さんが思っている人じゃなくて――。
 私が原因なハズない。私は悠木くんにとってそれほどの存在じゃないはずだから。いつだって悠木くんは先輩を見ていたんだから。
 だから私のことなんかで落ち込むことはあり得ないんだ。
 古瀬さんは何も言わない私に苛立ってきたようで、それを隠そうともせず乱暴に立ち上がった。少しだけ私の方が背が高いので私は見上げられる形になる。だけど古瀬さんの方がずっと大きく見えた。
「確かに野村先輩だったら美人だし良い人だし明良が好きになるのも仕方ないって思ってたけど、どうして渡会さんが明良と付き合ってるの? 今の明良を見てるとどうしても納得できない。このまま明良を傷つけるなら黙って見てるなんてしないから」
「でも悠木くんが好きなのは」
「自分だって言いたいわけ? 自惚れないでよ。見てれば分かるわ。今だって明良は野村先輩を好きなのよ」
 喉の奥が熱くなる。でもここで泣いたらだめだと言い聞かせて、せめて思いが溢れないように唇をぎゅっと噛み締めた。何か一言でも口にすれば涙も一緒に止まらなくなる気がした。
 古瀬さんの言うことには一理あると思う。ううん、ある意味では正解だ。悠木くんが好きなのは今でも澤井先輩だもの。私が悠木くんの心の隙間に少し顔を覗かせていただけで、悠木くんが何もしなくても私が苦しければすぐに終えられる関係だった。今までは悠木くんに追い出されない限り私は特別だって思っていたけれど、それは結局独りよがりの思い込みでしかなかったんだ。悠木くんは私を求めているわけじゃない。
 私の存在は悠木くんにとって受け入れてもらえない先輩への想いの“はけ口”にしかすぎないって分かってたはずなのに、どこかで「そうじゃない」って高をくくって甘えてたんだと思う。
「……何か言ったらどうなの? わたしはマジメに毎日部室に顔を出していたわけじゃないから、今までのことはよく知らないけど。だからって負けてるとは思わない。むしろ今は渡会さんより明良のことを分かってるわ」
――古瀬さんは強い。それが羨ましくて、悔しい。
「何を言えばいいの?」
 ようやく搾り出した声は少しだけ震えた。私がやっと口を開いたからか、古瀬さんは表情は変えないままほっと息を吐いた。
「そうね。まず、どうして明良を避けるようになったかが聞きたいんだけど」
「それは……さっきも言ったけど、家の方が時間に制限されなくて済むからで」
 古瀬さんの苛立ちがまた増したのが分かった。綺麗に整えられた細い眉がピクッとつり上がる。
「それだけじゃないでしょ」
 断定的な言い方にぐっと詰まる。思わず拳を握り締めると、自分の手が思った以上に震えていることに気づいた。
「最初は本当にそれだけだったよ。……でも、今は少し、違うところも、ある」
 小さくなっていく私の言葉を聴きながら、古瀬さんはホラ見ろと言うように私を睨み付けた。私は耐えられなくて、古瀬さんの目を直接見ることができずに、彼女の足元に視線を落とした。新しい感じのする黒いパンプスが目に入った。
「どうして?」
 古瀬さんの、その一言がなぜスイッチになったのかはよく分からない。
 だけど確実にその瞬間、必死で留めていた涙はプッツリと糸が切れたみたいに流れ出した。握り締めていた拳を解いて顔を覆うと、余計にだめだった。
「どうして……? 私が逃げたからだよ。……つらくて、逃げたの、私――」
 工藤先輩が私を呼ぶ声が蘇る。でもそれより鮮明に記憶しているのは、痛いほどの力で握られた腕の感触と、初めて下の名前を呼んだ悠木くんの声と。
『悪い、渡会』
 そう言われたときの胸の痛さだった。