Ich Liebe Sie

13.5 (悠木視点)


 時間ぎりぎりになって教室に入ってきた古瀬は、なぜだかひどく機嫌が良かった。昼休みまではどこか張り詰めた空気を漂わせていたというのに、だ。当然俺だけでなく周りの友人らも、昼休みにどこに行ってたんだ、とか、何をしてたんだ、と古瀬に聞いた。だが古瀬は誰の質問に対しても適当に返すだけで、肝心なことは何も言わなかった。
 ところが4時限目、俺と古瀬だけが講義を取っていない時間、古瀬はいつものように空き教室で時間を潰すつもりだった俺を部室のところまで連れてきた。当然こんな時間に部室に来る人はいなくて、そこはガランとした静かな空間でしかなかった。
「どうしたんだよ、古瀬。今日はなんか変だぞ?」
 とりあえずいつもの指定席に腰を下ろして古瀬を見た。指定席と言っても何となく毎回同じ場所に座っているからというだけで、暗黙の了解として存在しているものだ。そういえばこの席からは澤井先輩たちの席がよく見える。キャンバスを窓側に立てていたからどうしても二人の姿を見てしまうのだった。――もちろんそれを知って選んだのだけど。そして隣には渡会が居た。渡会と恋人という関係だと知られたのもこの席の位置のためだ。こちらからよく見えるということは向こうからもよく見えているということなのだから。
「変なのは明良でしょ。渡会さん、明良が野村先輩を好きなこと知ってたけど、どうなってるの?」
「は?!」
 俺が水沙を好きだって? ――ああ、そうか、俺の視線の先はいつもあの二人か渡会だもんな。普通なら男の澤井先輩を見てるなんて思わないだろう。
 俺の本当の好きな人は渡会にしか言ってないし、渡会以外の人間に言うつもりもない。古瀬の勘違いはある意味ありがたかった。
 っていうか、そうじゃないだろ。
「渡会と何話したんだ? それって今日の昼休みだろ?」
 思わずテーブルに手を付いて腰を上げると、古瀬は困ったような顔をして僅かに後ずさった。
「や、ごめんって。ちょっと明良が落ち込んでたから話を聞いただけ。だからそんなに怒らないでよ」
 怒る? 俺がなんで……怒るんだ……?
 とにかく落ち着け、俺。確かに今の俺は変だと自分でも分かる。いや、今だけじゃない。最近は不思議なほどイラつく。何でだかは分からない。いつからかも覚えていない。でもここ最近なのは明らかで。
「あ、ああ、悪い」
 そこでふと思った。
「……俺、そんなに落ち込んでたか?」
 古瀬はコクンと頷いて苦笑した。
「うん、落ち込んでたし、元気なかった。で、きっと渡会さんなら手知ってる、って思ったの。付き合ってるんでしょ?」
「ああ――」
 形の上だけの恋人。
 それは俺から言い出したことだ。渡会は不安そうな表情をしたけど、真っ直ぐ俺の目を見て「それでも良い」と言ったんだ。俺たちはそこから始まった。
 でもそう思っていたのは俺だけで、渡会の中では始まってすらいなかったのかもしれない。
 片付けられた隣の席を見るたび、そういう思いは強くなる一方だった。渡会が俺を好きでいてくれることを良いことに、俺は渡会の小さな背中に自分の重い荷物を乗せてしまっているだけなのかもしれない。
 いつだって誘うのは俺の方からで。渡会からはメールをしてくれないんだと言った時、彼女は力強く「する」と答えてくれたのに、結局1通も着ていない。それは俺が渡会の中で未だ曖昧な位置に居るからだろう。それが嫌で、渡会にとって俺の存在がより明確になるまで、今は俺から誘うつもりはない。
「――でも、ちゃんと付き合ってるって、言えないかもな、今は」
 俺が呟くと古瀬は躊躇いがちに言った。
「わたしがこんなこと言うのも変なんだけど、明良の気持ち、野村先輩から渡会さんに傾いてきてるんじゃない?」

『俺さ、先輩達見てるの、そろそろ限界かもしれない』
 思わず吐いた弱音。それが本音だったかは自分でも判断に難しい。けれど確かなことは、その時握った渡会の手は温かくて、離したら二度と戻ってこない気がした。
 渡会だけが本当の俺を知っている。長年一緒にいる水沙よりも、1年も一緒にいない渡会の方が俺を知っているなんて、笑ってしまう。それなのに渡会の隣は心地良くて。
 工藤先輩に向けられた挑発的な目に、俺がキレそうになったのも事実。知らず呼んでいた「志奈」という名は不思議なほど胸に響いた。

 これが“好き”だという気持ちなら、澤井先輩に抱いていた感情は何と呼ぶものなのだろう。