Ich Liebe Sie

15


 昼休みにする話ではなかったかもしれない。放課後部室に行く途中で何度もそう思った。それでも締め切りまで1ヶ月もなくて下書き止まりだから行かないわけにもいかない。自分にそう言い聞かせて足を進めた。
 部室に居たのは悠木くんと古瀬さんだけだったので驚いた。必ず居る工藤先輩の姿もないのは珍しい。まあ、4回生が居ることはほとんどないのだけど。
「先輩達は?」
「2、3回生は就職説明会だって。掲示板見てない? わたしたちも明日の4時限にあるんだよ」
「うっ、見てない。それって全員参加?」
「さあ? まぁわたしは行かないつもりだけど」
 ははっと笑う古瀬さんに笑い返して、私は自分の道具を取り出す。いつもの習慣で自然と悠木くんの隣に座った。どこかぎこちなく思うのは私だけなんだろうか。悠木くんは相変わらず黙々とキャンバスに向かっている。チラッと見えた悠木くんの筆の先には青い風景が広がっていた。
 鉛筆の線だけが描かれている自分のキャンバスを固定すると、赤と黄と白を取る。私は油絵なのでそれらをナイフで練り混ぜて、大まかな色づけもナイフでそのままする。筆は細かい塗り重ねの時に使うのだ。
 時計の針の音さえしない部室の中は、ペタペタと色を塗る音や、カラカラと筆を水につける音が響く。集中し始めた私にはそんな小さな音はだんだんと一切入ってこなくなって、一通りで来た頃には何の音もしていないことに気づいた。
「渡会、もう時間だけど」
 悠木くんの声に顔を上げれば、門が閉まるまであと10分を切っていた。周りを見れば古瀬さんはもう既に居なくて、目の前に立つ悠木くんだけだった。そしていつの間にか悠木くんの道具は全てきちんと片付けられている。
「あ、うわ、ごめん。すぐ片付けるから!」
 ドタバタと慌しく動く私を悠木くん何も言わず待ってくれた。それだけじゃなくて絵の具や筆や細々としたものを片付けるのを手伝ったくれたりもした。悠木くんにしては珍しい無表情のままだったけど、工藤先輩のそれとは違ってすごく優しいものに感じた。
「鍵返してくるから、待ってて」
 部室の鍵は部長である田中先輩が基本的に持っているものなのだけど、大抵は顧問の先生の研究室にある方を使う。私は頷いて門の外で待つことにした。
 なんだか昼休みに「恋人をやめよう」と言ったことが夢のように思えてくる。こうして悠木くんを待っているなんて、恋人同士だったときと変わっていない。悠木くんの声は変わらず優しく私の耳に届く。私の中ではまだ夢の続きのままになっているんだろうか。
 しばらくして悠木くんが小走りにやって来た。私の隣に立つと何でもないことのように私の手を取って歩き出す。
「行こう。送るよ」
 今まで学校からの帰り道に手を繋ぐことはなかった。「送るよ」という言葉を口にしなくても一緒に帰っていたのに。
 私は驚きすぎて固まってしまった。繋がれたてはしっかりと握り締められていて、私は引きずられるようにして歩くしかできなかった。
「……渡会、俺さ」
 少し前を歩く悠木くんは私の方を見るというわけでもなく話し始めた。
「正直、自分でもよく分からないんだ」
 握り締められたては、気づけば指が絡まれている。
「あの二人を見るとイライラするし、……先輩には触れてほしいと思う。でも、工藤先輩に渡会を取られるかもって思ったらすげぇムカついたし、渡会を誰にも触れさせたくないとも思った」
 横断歩道の前に来て悠木くんは立ち止まり、私の方に体を向けた。その表情は困ったような、寂しそうな、何か言いたげなものだった。
「俺が今まで先輩に抱いていた感情が恋愛って呼べるものじゃなかったら、渡会に抱くこの気持ちは何なんだ? 俺、渡会のことを好きなんだと思う。でも、渡会が思ってる『好き』とは違うんだよな?」
 握られた手はそのままに、悠木くんの背後で光る歩行者用の信号は青に変わっていたけれど、私と悠木くんはお互いを見つめ合ったまま動かなかった。動けずにいた。
 こう見えても私は国語国文学を専攻している。多少なりとも日本語を詳しく勉強しているのだから、こういう時にこそ適切な言葉を返して上げられたらどんなに良いだろう。
 それでも私には勇気がなかった。ちゃんと悠木くんと向き合おうと決めたのに、肝心な時にはまた逃げてしまう。
 もし悠木くんが『好き』ではなく『愛している』という言葉を基準にしたとき、そこから出される答えを聞ける勇気を、私はまだ持っていなかったんだ。