Ich Liebe Sie

16


 握られた手を振りほどく勇気もなく、しっかりと繋がれたまま電車を降りた。悠木くんはどんな思いで私の手を離さないでいるんだろう。そんな分かるはずもないことばかりが頭の中に浮かぶ。
 私は悠木くんとは違って家を出ていないし、家族にも悠木くんのことは言っていないから、彼を部屋に上げたことはなかった。それでも何度か家の前まで送ってもらったことがあるので、悠木くんは慣れた足取りで私の家へ向かう。途中、悠木くんは何度も遠回りをしながら、それでも一言も話すことなく、やがて私の家が見えてきた。リビングと2階の明かりが他の家と同じように暗い路地に漏れている。
「っ悠木くん、もう、ここでいいよ」
 玄関まであと10メートル程の所で私は足を止めた。家の前まで送られるのはさすがに躊躇われる。しかも今の私たちはもう恋人同士でも何でもないのだ。……友達でさえないかもしれない。
 つられるようにして振り返った悠木くんは心なしか悲しそうに眉をひそめた。
「あの、何のつもりか分からないけど、こういうことされると……」
「迷惑?」
 私は思い切り首を横に振る。迷惑なわけはない。むしろその反対だ。
 でも同時に、この後に傷つけられないか、期待してしまわないか、恐怖にも似た不安が過ぎるのも確かだった。
「……俺も渡会が好きだ。別れたくない。それじゃあだめか?」
 どうして。
「悠木くんには先輩が」
 いるのに。
 言う前に、抱きしめられた。握られた手を強く引っ張られて、倒れこむように悠木くんの腕の中に入れられて、悠木くんの胸に頭を押さえつけられる。トクトクと少し早い鼓動が聞こえてくる。
「先輩のことは、決着をつける。もっと早く気づけばよかったけど。もう遅いかもしれないけどそれまで、恋人のままでいてほしい」
 それは初めて聞いた、悠木くんの泣きそうな声だった。
 どうして――。
 私は結局、頷くことはできなかったけれど。

 元々集まりの悪かった部室の中は、試験を間近に控えて、よりいっそう静かになってきた。古瀬さんもあまり来なくなって、悠木くんに至っては他の先輩達同様、ほとんど見なくなった。古瀬さんに聞けば、サークルに来なくなった以外は今までどおりということだった。
 そんな中、私と工藤先輩だけは毎日のように来ていた。私はそうでもしないと間に合わないから門が閉まるギリギリまで作業をしているのだが、工藤先輩はただ真面目なだけだと思う。当然私よりも進んでいる工藤先輩は、私が帰るよりも早くに片付けて帰っていくのだ。
 私と工藤先輩が二人きりになることがよくあるといっても、特別何があるというわけではない。お互いの作業を黙々とするだけで、会話らしい会話さえ一つもない。それこそ挨拶だって微妙な感じだ。
『渡会っ』
 あの日のことが嘘のように何もない。
 そんな、静かで穏やかで少しだけ切羽詰った日々が続いていた。

 色づけも中盤に入ってきて、今日のノルマは達成できた、と片付け始める。時計を見ればそれが常のように門が閉まる15分前になっていた。
「あ、渡会」
 画材をロッカーに戻して立ち上がると、ドアが開く音と共に私の名前を呼ぶ声がした。振り返るとそこには帰ったはずの工藤先輩が立っていた。
「今帰るところ?」
「はい」
「俺ちょっと残るから鍵置いて先に帰っていいよ」
 そう言って壁に掛けていた鍵を手にした工藤先輩に、私は戸惑いを隠せなかった。門を閉まるのにもう時間はないのに、先輩より先に帰っても良いのだろうか。
 私がもたもたとしていると、工藤先輩はさっさと自分のロッカーの中をがさごそとやって、私が支度を終えると同時に先輩の用事も終えたようだ。振り返るとまだ私が居たことに工藤先輩は驚いた表情をした。
「まだいたのか」
「あ、いえ、今帰りますから」
 私が部室を出ると工藤先輩も一緒に出てきた。
「送るから、待ってて」
「え、でも」
 思わぬ提案にやはり私は困惑する。けど工藤先輩は有無を言わさず、さっさと鍵を研究室に返しに行ってしまった。私は仕方なく門の外で先輩を待つことにする。
「渡会」
 工藤先輩を待っていると、ふと知っている声がした。顔を上げると言わずもがな、悠木くんだった。
「あのさ、ちょっと話があるんだけど、今からいいかな」
「え……?」
 私が驚いていると悠木くんの視線が私の後ろに移った。途端に悠木くんの表情が険しくなる。
「……なんで、工藤先輩?」
 悠木くんは睨みつけるように工藤先輩から目を離さずに言った。私も工藤先輩もすぐには口を開かなかった。私は開けなかったのだけど。